間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

お客様から抜け出せないアーティスト2

の続き。

 

結局、貸しギャラリーとは何なのかというと、企画ギャラリーに拾ってもらえない有象無象の作家の受け皿であって、これがあるからこそ、お前のような中途半端な人間が作家のふりをできるんだろと言われたら返答に詰まる。事実、日本は美術市場の規模が小さいのに、作家志望者はやたらと多い。それはアニメや漫画文化の影響だったり、美術系の学校が多すぎるせいでもあるだろうが、科学技術が進歩して人間の仕事が機械に奪われると、人間独自の仕事は発明とか創作ぐらいしかなくなるので、先進国で作家のような浮き草家業の人間が供給過多になるのは自然な流れだと思う。そして、みんながみんな金脈を掘り当てようとしているときに、ツルハシを売って儲けようとする人間が出てくるのも当たり前のことなのだ。

 

ただ、海外だと、そもそも貸しギャラリーなどというものはほとんど存在せず、企画ギャラリーが主流だと聞く(金を払って展示をしているという時点でプロではないという認識なのだろう)。企画ギャラリーでは、ギャラリーの販売手数料は高くなるが、「作品が売れるかどうか」というリスクを店と作家が共に背負っている分、両者に責任感と互助関係が生まれるし、商売としては健全である。

 

今は企画ギャラリーも潰れまくっているし、日本ではそもそも芸術作品が売れないというので、自分の周りでも海外に脱出する人が増えている。国内では作品が売れない分を、有象無象の作家志望者から補填しようという動きが加速し、ヒエラルキーがより補強される。要するに、弱者は強者の養分にされるというありふれた構図である。ただ、実力のある作家の養分にされるのならまだ納得がいくが、実際には芸術のことなど何も知らないような金目当ての連中の養分にしかなっていないことが多く、こんなことをいくら繰り返しても何の進歩もない。

 

何故そんなことになるのかという根本のところを言えば、日本人に「芸術作品を買って家に飾る」習慣がないからと言う他ない。バブル期は金が有り余っている人が芸術作品に金を使っていたのでまだ良かったのだろうが、それも大半は純粋に作品が好きだからというより、「将来作品の価値が上がるかもしれない」という投資目的で買っていた人が多かっただけで、今の美術業界には投資的な価値のあるものなんかほとんどない。

 

散々書いてきたが、自分も貸しギャラリーを全否定しているわけではない。形態としては貸しギャラリーでも、良い作家を集めて固定客がついている店もある。大雑把な貸しギャラリーという分類の中にも、ちゃんと作品を売る営業努力をしている店もあれば、スタッフすら常駐していない、本当にただ場所を貸すだけの店もある。

 

賃料と販売手数料の二重取りが当たり前になっていることについては、商売の筋としておかしいと思うが、それによって単純に貸しギャラリーが悪だということにしても、それは根本的には「作家志望者が多すぎる」のと、「日本では芸術作品が売れない」せいだから仕方ない、というところに行き着いてしまう。少しでも芸術が身近な存在になるのなら、貸しギャラリーでも無いよりはマシなんじゃないかと考えるべきなのだろうか。

お客様から抜け出せないアーティスト1

芸術なんかにあまり興味がないという人にとっては、芸術家の展覧会というと、基本的に美術館や百貨店で開催されているもののことを想像すると思う。しかし、そのような場所で展示ができるのは評価や知名度のある作家だけで、大多数の作家は美術館や百貨店での展示には縁がない。そんなわけで、有象無象の作家は、初めは貸しギャラリーを借りて作品を発表することが多い。自分も何度か貸しギャラリーで個展をしてみた結果、正直、貸しギャラリーというものに対する不信感を強めるばかりで、あまり希望が見出せなかった。

 

大雑把に分けると、ギャラリーには貸しギャラリーと企画ギャラリーの2つがある。

 

貸しギャラリー

・賃料がかかる。

・基本的には誰でも利用できる(審査がある店もある)。

・作品の売り上げに関しては、販売手数料を取る店もあるし、一切取らない店もある。

 

企画ギャラリー

・賃料はかからない。

・ギャラリーが選んだ作家の企画展示のみを行う。

・作品の売り上げを作家と店が分割する。割合は店によるが、基本的には貸しギャラ

 リーより高い。

 

貸しギャラリーで個展を開くとして、収支がどのようなものになるのか、試しに数字を挙げてみる。自分が知っている某ギャラリーだと、1週間(実質6日間)の賃料が12万5千円。さらに作品が売れた場合、売値から販売手数料が30%差し引かれる。ということは、仮に1週間で20万円の売り上げがあったとすると、販売手数料が−30%で残り14万円、そこから賃料で−12万5千円、残りが1万5千円。単純にギャラリーに払う金だけでこうなるので、宣伝にかかる費用や作品の送料、材料費なんかを入れると、このぐらいの売り上げではほぼ赤字になる。

 

これはあくまで一例で、賃料や手数料は店によってまちまちだが、1週間で20万円売り上げられるような作家ですらこの有様なのだから、作品の売り上げだけで生活するというのがどれだけ非現実的なことかは言うまでもない。個展を開くためには、それなりの数の作品を揃えなければならないのであって、準備に数ヶ月から数年はかかる。そんなわけで、作家として長年活動している人間であっても、主な収入源はどこかの学校や絵画教室の講師としての給料だったりする場合がほとんどである。

 

ギャラリーの人に直接訊いたわけではないので正確なところは知らないが、今どき貸しギャラリーを1週間借りるだけで20万円も売り上げられる作家は少ないと思う。それなりに条件の良いギャラリーだと、黒字にするだけでも結構大変である。逆に言えば、1週間で20万円程度も売り上げられないような作家はそこで展示をするべきではない、ということになるのかもしれないが、安定してそのぐらいの売り上げを出せる人は、そもそも貸しギャラリーなんか借りずに企画ギャラリーに売り込みにでも行った方がいいのではないかと思う。

 

以前書いた映像制作の話とも少し繋がるが、貸しギャラリーを借りて個展を開いたからといって、大きな宣伝力に与れるわけでも何でもない。むしろ宣伝は自分でしなければ客なんて来ないし作品も売れない。自分の責任で個展をやる以上、お客様感覚でいては駄目なのだと思いながらも、一方で自分はギャラリーには確かに賃料を払っていて、お客様に他ならないのではないかという疑問が湧く。ギャラリーと名のつく店に金を払ったにもかかわらず、それによって受けられるサービスが単に「場所を借りる」という一点に尽きるのだとしたら、これは果たしてギャラリーと呼んでいいのか。

 

誤解のないように補足しておくと、店番だの販売の手続きだの、商売における基本的な業務はギャラリー側が大抵してくれる。本当に「場所を貸す」ことだけしかやらないギャラリーがそんなに沢山あるわけではない(そんなものはギャラリーではない)。ただ、ギャラリーの本分である仕事が何なのかと考えたとき、それは当然「作品を売ること」のはずである。にもかかわらず、今の貸しギャラリーの実体は、芸術なんかに何の関心もなくても、誰でもできるような仕事でしかなくなっている。

 

作品を売る努力を放棄した貸しギャラリーは、金持ちの日曜画家なんかをおだてて個展を開かせ、賃料を取るのが目的と化している。客が入ろうが入るまいが、作品が売れようが売れまいが、ギャラリーは賃料だけでやっていけるような料金設定にしているのでどうでもいいのである。そのくせ絵が売れると「販売手数料」という名目で売り上げから何割かの金をかすめ取る。商売をする上での「もし商品が売れなかったら」という当たり前のリスクを賃料という形に変換して作家に丸ごと押し付け、たまたま入ったリターンにはしっかり手をつけるという、二重取りの卑怯極まりない営業姿勢が貸しギャラリーの常識になっている。当然、実力もない日曜画家の絵なんかを見に来るのは身内だけなので、何度個展を開こうが、自己満足にしかならない。ミュージシャンにとってのライブハウスも同じようなもので、ライブを見にくる客から金を取るのではなく、出演者から金を取れば良いという営業形態がこの業界でも当たり前になってしまっているそうだ。

 

このような貸しギャラリーと無名作家の関係を考えるとき、思い浮かぶのが紳士録である。その昔、紳士録詐欺というものがあったそうで、著名人などのプロフィールを紹介する本にあなたも名前を掲載しませんかと持ちかけ、掲載料と本の代金をせしめるというやり口だったという。そんな本を買うのは本に名前が載っている当事者たちだけで、まるっきり裸の王様でしかない。人の名誉心にかこつけたこの商法は、作家として名を上げたいという作家志望者と貸しギャラリーの関係に似ている。

 

絵画などのコンペでも、応募者の大半を入選ということにして(もちろん賞金なし)空疎な名誉を与え、出品料をより多くの作家志望者からせしめることが目的になっているようなものが多い。名目だけでも入選と言っておだてておけば、「今度は入賞するかも」ということで、また応募してもらえる可能性が高まると踏んでいるのだろう。作家側も箔がつくならということで、出品料を払ってそれを買う。これももはやコンペでも何でもなく、モンドセレクションと同じ、ただの商売である。こういうやり口を見ていると、なんだか子供の運動会で徒競走の順位をつけないというのと同じような、生温いままごとに思えてくる。こうなるともう創作という名の消費活動でしかない。

 

実際、貸しギャラリーで個展やグループ展をやると、次々と展示の声がかかるようになるのだが、別に賃料をタダにしてくれるわけでも何でもないので、カモにされているだけなのではないかという疑念が沸々と湧いてくる。貸しギャラリーからの展示の誘いは、実質的には「うちの商品を買ってくれ」と懇願されているに過ぎないのであって、これを作家としての自分に来た仕事の依頼のように思い込んで、次々と賃料を毟り取られているような作家もよく見かける。もちろん、そういう展示をして楽しければそれでいいという人もいるだろうし、人との出会いがあって何かが起こることもあるかもしれないが、そういった展示にいくら参加しても、それが作家のキャリアとして見られることはない。

 

に続く。

「福岡道雄展 つくらない彫刻家」感想2

の続き。

 

FRPの板の上に「何もすることがない」とか「私達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか」といった言葉を延々と写経のように刻んだ作品郡については、この作家が創作という行為に縛られ、自縄自縛の状態で吐き出した怨念のようなものを感じた。この怨念じみた文言の1つ1つは陰鬱なのだが、作品から少し離れて全体を眺めてみると、不思議な美しさがある。積み重なった思念の地層とでも呼べそうなものの断面に、おそらく本人も意図していなかったであろう法則的な様態が現れている。

 

何かを生み出すときには、必ず生みの苦しみが伴う。何の苦しみもなく最初から最後まで楽しいずくめで物を作っている人がいたとしたら、それは創作ではなく単なる作業に没頭しているだけだからだろう。何か新しいものを作り出そうとしている人ほど、生みの苦しみは大きく、創作という行為から楽天的な意味合いが薄れ、己を縛る呪いのようなものへと変貌していく。

 

しかし、いくら苦しんだところで、そんなに独創的な作品がそう易々と作れるはずがなく、作家は創造の神が降りてくるまでの時間を悶々としながら過ごさなければならない。何も作っていないとき、作家本人は自分自身を無価値だと感じる。その焦燥から逃れるために、福岡道雄は「なにもしない」をした。あの写経のような文字列は、その第一段階として、画面上の空白を時間的な空白でびっしり埋めたものなのだと思う。

 

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撮影可の展示室にて撮影

 

福岡道雄はアーティストトークで、「自分はもう彫刻家という肩書きにこだわっていない。何も作っていないのだから、ただの爺さんでいい」と語っていた。「つくらない彫刻家」を名乗ることで、何も作っていない時間までが創作行為になってしまうことに疲れてしまったのかもしれない。

 

どこまでも観念で己を雁字搦めに縛っていくこの作家の姿勢には悲壮なものを感じてしまうのだが、本人を見ると実に飄々としていて、そんな風に考えるのも大袈裟な気がした。あの解脱したような佇まいは、中島敦の「名人伝」に登場する弓の達人、紀昌を思わせる。物事の行き着く先まで辿り着いた結果、それそのものが不要になってしまったのか、それとも本当にただの盆暗になってしまったのか、自分にはまだまだ程遠い場所の話である。

「福岡道雄展 つくらない彫刻家」感想1

現在、国立国際美術館で開かれている「福岡道雄展 つくらない彫刻家」を見てきた。アーティストトークにも参加し、作家本人の話を聞くことができた。聞き手の松井智恵氏との金玉トークなども盛り上がって、大変聞き応えがあった。

 

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撮影可の展示室にて撮影

 

自分が福岡道雄という人を知ったのは数年前で、今回の展示のサブタイトルにもなっている「つくらない彫刻家」という書籍を読んでから、作品に興味を持った。

 

自分なりの解釈では、福岡道雄の作品は「とてもよい丸」だと思っている。若いうちから様々な作品を作り続ける中で、だんだんと作品の要素が削ぎ落とされていき、「馬鈴薯」「腐ったきんたま」「つぶ」といったように、ごくシンブルな形の「丸」に集束している。

 

例えば、単に「丸」「四角」「三角」と基本的な形を思い浮かべてみても、その形の中には正確にコンパスで描いた真円もあれば、殴り書きしたような歪な形の四角や三角もある。これらは色で言うと、「赤」「青」「黄」といった、ごく大雑把な括りでしかなく、細かく見ていけば「朱色」「群青色」「黄土色」といったような微妙な調子の色の地平が無限に広がっているのである。これら1つ1つに名前をつけることなど到底不可能である。名前をつけること、つまり言語化することには、そのような微妙な差異を無視、同一視しようとする働きがあり、芸術的感覚はこれに抗うものである。

 

ただ単に100人の人間に紙と鉛筆を渡して丸を描いてもらっても、そこには100通りの違った丸が出来上がる。日本の書画における円相図の面白さはここにあって、ただ丸を描くだけでも、そこには描く人の何かが表れている、という風に見ていくと、形の微妙な違いを見分ける楽しみが生まれてくる。それを個々人の思想性にまで高めたのが円相図だと自分は認識している。

 

福岡道雄の素描作品にも「丸」を描いたものがあり、A4ぐらいの普通の紙に鉛筆で2〜3センチしかない小さな丸が1つ2つぽつんと描かれているだけで、あとは空白である。彼の「丸」は、丸を描こうとして描いたというより、偶然鉛筆が紙にぶつかってできただけのような無造作な印象を受ける。仮にこの作品が道端に落ちていても拾う人はまずいないだろうというぐらい、作品然としていない。実際、多くの観客はこの作品を一瞥しただけで通り過ぎていた。

 

しかし、単なる「丸」や「四角」の中にも無限の差異があるということに気付いてから、自分はそのような微妙な形を発見するのが面白くなり、海岸で石やガラスを拾って観察したりするようになった。波に削られて一様に丸くなったものを並べても、全く同じ形のものは1つとしてない。それらを集めて見ていくと、同じ「丸」の中にも自分にとっての良し悪しができてくる。言語で大雑把に括れば同一視されてしまうものの中にも、自分なりの基準を作ることができるということは、作家の感覚としてとても重要なことである。「全く同じ」にできるのは、データの中、つまり概念においてのみである。

 

福岡道雄の最後の作品である「つぶ」は、本人にとっての「丸」や「形」が行くところまで行き着いたものなのだと思う。それを良いものだと思って作ったかどうかは知らないが、とにかくシンプルな形の中にある本人のこだわりが結実したものであることは違いない。

 

へ続く。

払わなければいい

現在、映像制作の料金未払いに遭っていて、面倒臭いことになってきている。完成データはすでに納品済みで、後は金を払ってもらうだけなのだが、何度メールしてもほとんど返って来ず、返ってきても「経理に確認します」だの「○日に支払います」だのと言うだけで一向に払わない。電話も全く繋がらない。

 

今まで前金を取らずにやってきた自分も認識が甘かった。所詮アマチュアだからと、契約書も作らずに適当にやってきたツケが回ってきたらしい。見ず知らずの人間から依頼があった場合、こういうことが起こる可能性を考えておかねばならなかったのである。次からは必ず前金を取るなり依頼者の口座を控えるなりするつもりだが、すでに起こってしまったこの状況をどうするか考えなければならない。

 

こういう場合、まずはメールや電話で問い合わせをして、それでも相手が払わないのであれば、請求書を内容証明で送って、最終的には少額訴訟、財産の差し押さえという形になるらしい。しかし、調べれば調べるほど日本の法律というのは踏み倒しをする債務者に甘くできていて、「何を言われようが払わなければいい」と開き直った相手から合法的に金を取るのは非常に面倒臭いのである。

 

今回のような少額の未払いだと、弁護士を雇うと出費の方が大きくなってしまうので、面倒臭い手続きを全て自分でやらねばならず、理不尽な作業を強いられることになる。そんなことをするぐらいなら、もう金は諦めて、他の仕事にでも精を出した方がよっぽど収入に繋がるという場合もあるだろう。実際、弁護士のサイトなどを調べていると、「未払い金が少額なら諦めましょう」などと書いてあるところもあり、ふざけているのかと思った。自分の場合、少額訴訟を起こせば勝てるだろうが、調べてみると、勝ったところで金をすんなり取れるとは限らないということが分かり、こういった面倒な事情から、債権者側もできれば訴訟はしたくないという人が多いのではないかと思った。

 

自分の場合、近日中に内容証明を送ることになると思うが、内容証明には何の拘束力もなく、言ってみれば「訴訟の準備段階に入った」という軽い脅し程度の効果しかない。そして、訴訟に勝ったとしても、債権者は相手の口座などを自分で調べなければならない。さらに、もし口座が分かったとしても、相手が口座に金を入れていなければ当然差し押さえできない。また、自宅にある現金は額が66万円以下だとこれも差し押さえ不可。給料からは手取り額の4分の1までしか取ることができない。こんな有様では抜け穴なんかいくらでもあるに決まっている。

 

日本弁護士連合会が2015年に行ったアンケート調査によると、殺人などの重大犯罪について、賠償金や示談金を満額受け取ったという回答はゼロ。6割の事件では、被害者側への支払いが一切なかったという。単なる仕事の賃金未払い程度ならまだしも、殺人などの被害者遺族に対してもこんなことがまかり通るというのはどう考えても法律がおかしいとしか思えない。こんなものはれっきとした犯罪者なのだから、そんな人間が賠償金を「払いなさい」と言われて「はい払います」と素直に払うわけがないではないか。なぜ法を犯した人間の善意を前提とするような構造になっているのか理解に苦しむ。

 

現在、この問題に関しては、法務省民事執行法改正のための中間試案が出ているそうなので、このような理不尽な状況が少しでも改善されることを期待するしかない。本来なら自分はこんな難しい法律の問題などに関わるような人間ではないのだ。こんなやりたくもないことをやらされる破目になって本当にうんざりする。