間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

「福岡道雄展 つくらない彫刻家」感想1

現在、国立国際美術館で開かれている「福岡道雄展 つくらない彫刻家」を見てきた。アーティストトークにも参加し、作家本人の話を聞くことができた。聞き手の松井智恵氏との金玉トークなども盛り上がって、大変聞き応えがあった。

 

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撮影可の展示室にて撮影

 

自分が福岡道雄という人を知ったのは数年前で、今回の展示のサブタイトルにもなっている「つくらない彫刻家」という書籍を読んでから、作品に興味を持った。

 

自分なりの解釈では、福岡道雄の作品は「とてもよい丸」だと思っている。若いうちから様々な作品を作り続ける中で、だんだんと作品の要素が削ぎ落とされていき、「馬鈴薯」「腐ったきんたま」「つぶ」といったように、ごくシンブルな形の「丸」に集束している。

 

例えば、単に「丸」「四角」「三角」と基本的な形を思い浮かべてみても、その形の中には正確にコンパスで描いた真円もあれば、殴り書きしたような歪な形の四角や三角もある。これらは色で言うと、「赤」「青」「黄」といった、ごく大雑把な括りでしかなく、細かく見ていけば「朱色」「群青色」「黄土色」といったような微妙な調子の色の地平が無限に広がっているのである。これら1つ1つに名前をつけることなど到底不可能である。名前をつけること、つまり言語化することには、そのような微妙な差異を無視、同一視しようとする働きがあり、芸術的感覚はこれに抗うものである。

 

ただ単に100人の人間に紙と鉛筆を渡して丸を描いてもらっても、そこには100通りの違った丸が出来上がる。日本の書画における円相図の面白さはここにあって、ただ丸を描くだけでも、そこには描く人の何かが表れている、という風に見ていくと、形の微妙な違いを見分ける楽しみが生まれてくる。それを個々人の思想性にまで高めたのが円相図だと自分は認識している。

 

福岡道雄の素描作品にも「丸」を描いたものがあり、A4ぐらいの普通の紙に鉛筆で2〜3センチしかない小さな丸が1つ2つぽつんと描かれているだけで、あとは空白である。彼の「丸」は、丸を描こうとして描いたというより、偶然鉛筆が紙にぶつかってできただけのような無造作な印象を受ける。仮にこの作品が道端に落ちていても拾う人はまずいないだろうというぐらい、作品然としていない。実際、多くの観客はこの作品を一瞥しただけで通り過ぎていた。

 

しかし、単なる「丸」や「四角」の中にも無限の差異があるということに気付いてから、自分はそのような微妙な形を発見するのが面白くなり、海岸で石やガラスを拾って観察したりするようになった。波に削られて一様に丸くなったものを並べても、全く同じ形のものは1つとしてない。それらを集めて見ていくと、同じ「丸」の中にも自分にとっての良し悪しができてくる。言語で大雑把に括れば同一視されてしまうものの中にも、自分なりの基準を作ることができるということは、作家の感覚としてとても重要なことである。「全く同じ」にできるのは、データの中、つまり概念においてのみである。

 

福岡道雄の最後の作品である「つぶ」は、本人にとっての「丸」や「形」が行くところまで行き着いたものなのだと思う。それを良いものだと思って作ったかどうかは知らないが、とにかくシンプルな形の中にある本人のこだわりが結実したものであることは違いない。

 

へ続く。