間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

作品をどう見てほしいか

前回の続き。

 

アートフェスに行って、そこに出展している海外の作家の作品を見ていると、彼らは大抵たどたどしい日本語で積極的に自作の魅力をプレゼンしてくる(若干引くほどに)。どうも海外では作家がプレゼン能力を磨くのは当たり前のことで、寡黙にしているのが美徳だ、みたいな価値観はないのではないかと感じる。単純に物を売るという仕事として考えると、商品を客にアピールしないセールスマンなど職務怠慢以外の何物でもない。

 

しかし一方で、海外のギャラリーでは、展示期間中に作家が在廊しようとすると、「作品を売るのに邪魔だから来るな」と言われるという話を聞いたこともある。この場合は、売るためのプロがいるので、それに任せるべきだと考えれば筋が通るのか。どちらにしても、ただ見てもらえば分かってくれるはず、という考えではないようだ。

 

前回のところから話が混濁してきたので整理すると、自分は作家には一定の言語化能力が必要だと考えている。しかしそれは、あくまで作品をより良いものにするためであって、別にプレゼンのためではない。むしろ客として作品を鑑賞する際には、過度なプレゼンは邪魔だと感じる方だ。ちょっとした作品の背景を話してくれるぐらいならいいが、制作意図を明け透けに話されたりすると、そこで脳内に「−完−」の文字が浮かび、その作品への興味が終了する。

 

鑑賞者に自分で考えさせてくれない作家は面白くない。もちろん、それは自分がそういったことを考える作業が好きだからやめてほしいというだけで、いくら言葉を尽くしても完全な説明というものがありえない以上、その作品によって伝わるものがプレゼンでひとつ残らず伝わったということにはならないだろうが。

 

作家が言語化能力を高め、自作についての解説をするとなると、そこで持ち上がってくるのが、作品の見方に一定範囲内の「正解」を設定すべきか否かという問題である。例えば、明らかな政治的主張を含んだ映画を観た人が、その文脈を全く理解できずに、「映像が綺麗で感動した」だけで終わったとしたら、それをどう捉えればよいのか。

 

もちろん制作者側にとっては、それは失敗であって、「人それぞれの見方があっていい」というような、投げやりな考え方で済ませるべきではない問題である。もし映画を観終わった後に観客がどう思うかまでが完全に固定されているような作品があるとすれば、それはもはや表現ではなく洗脳である。明確に伝えたいメッセージがある作品だとしても、ほとんどの場合は観客が最後にどう思うかという部分での自由な分岐を許容しているはずである。しかし、いま挙げたような例だと、制作者が「最低限ここまでは来て欲しい」と設定したレールからも大きく外れてしまっているのであって、これを是としてしまうのはどうかという気がしなくもない。

 

現実問題として、現代アートには、必要な文脈を踏まえた上で鑑賞しないと、作者が最低限設定した地点にすら辿り着けないものが非常に多く、鑑賞者のほとんどがそこまで辿り着けなかったり、逆に説明過多になって鑑賞者を辟易させたりしている。

 

個人的には、現代アートはそういう文脈のルールありきのゲームで、それまでのアートとは似て非なる別の競技みたいなものだと捉えている。現代アートの世界では「感じたままに見る」という文脈を無視した見方は何かと否定されがちだが、鑑賞者側の姿勢としては、その競技に参加したい人は文脈を勉強すればいいし、「感じたままに見る」という見方にこだわる人は、元々その競技に参加する気がないのだとしか言えない。

 

何となくアートという言葉で一括りにされているが、現代アートとそれまでのアートの見方を「走る」という行為に例えるなら、やっていることは短距離走とマラソンぐらい違うのであって、鍛えなければならない筋肉が速筋と遅筋で違っているのと同じことなのではないかと思う。正直に言って、現代アートに関しては、自分にははっきりこうだと言える回答があまりないのでこのへんにしておく。

 

言語化を放棄している人にしろ、評論家にしろ、実はどちらも芸術を「説明できないものであってほしい」と思っているのではないかというのが自分の考えである。自分はどちらかというと後者に近い考えの人間だと思うが、自分の言語化能力を総動員しても説明できないような感動を与えてくれる作品に出会いたいと思っているし、そういう作品に自分の言語化能力が敗北するとき、不思議と充足感を覚える。これは自分の持っている金庫を、どうせ壊せないので触らないでおくか、壊せないことを確かめるために叩いてみるかの違いでしかないのではないか。どちらにしても、自分は金庫の中身には大して興味はない。