間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

言葉にできない

今現在、自分のところには何故か文章の依頼が来ていて、提出期限はとっくに過ぎている。依頼などと言うと大袈裟に聞こえるが、何だかよく分からん自費出版の雑誌に、自作についてのちょっとした文章を書いてくれと知人に頼まれただけのことで、金も貰えない。自分は文筆業など全くやったことがないし、そういう仕事をしたいと思ったこともない。文章を書くのが得意だとその知人にアピールした覚えもない。

 

もちろんこんなブログをやるぐらいなので、文章を書くのは好きな方だ。しかし、好きでやっていることを誰かにやれと言われると、途端にやりたくなくなるのが人間の性で、今、はっきり言ってやりたくない。しかも、やりたくなくてやらないだけでなく、やらなくていいこのような文章を書いている。自分という人間は、やらねばならないことがあるときに、やらなくていいことを精力的にやるという実に腐りきった習性の持ち主で、先ほどから3時間ぐらいぶっ続けで、ねずみの糞よりどうでもいいこのような文章をいくつも書き散らしている。

 

こういうときにいつも思い出すのが、学校で毎年出されていた夏休みの宿題のことである。夏休みの宿題というのはなかなか重要な意味を持っていて、自分のような怠惰な人間は、それが「長期的な仕事のこなし方や、自律性を身につけるための訓練」だったのだということに、大人になってから気付くのである。

 

今、依頼された文章を書く気が湧かないのは、金が貰えないせいでもあるが、自作について説明をすることほど怠い作業はないと思っているからである。

 

それ以前に、自分のような、どこの馬の骨とも分からん絵描きの作品解説なんか誰が読むのか。・・・などと言い出したらこのブログの存在意義まで危うくなるが、その文章は雑誌に載せるのだから金を取って売るのである(買う人がいるかどうかは別として)。このインターネットのご時世に、金を出してまで読みたい文章なんてそうそうあるものではない。「情報はタダ」が当たり前になってしまっているというのに、訳の分からん作品解説を金を出して読むなどという行為は正気の沙汰とは思えない。むしろそんな苦行みたいなことをさせてしまって悪いので、こっちが金を払わなければならないのではないかと思うぐらいである(思うだけ)。しかしこういうことをあまり言い過ぎると、今度は逆に他の執筆者に失礼になるのでやめておく。

 

ともあれ、自分の作品を言葉で説明する、という行為の野暮ったさは、芸術家でなくてもちょっと考えれば分かると思う。芸術というのは言葉にできないものを表現するから意味があるのであって、言葉で説明できることなら始めからそうしろということになるからである。

 

と、ここまでは簡単な理屈だが、個人的にはこの考えには突っ込みたいところがあって、この理屈を盾にして、考えることを放棄しているような人が多いのが引っかかるのだ。具体的な例を挙げると、本の感想として「読めば分かる」と言ったりとか、CDの宣伝文に「必聴」と書いたりするのがそれに当たる。芸術なんかにさして興味はないという人が言う分には別にいいし、発言者によっては説得力が生まれる場合もあるかもしれないが、これは女性を口説くのにいきなりセックスをしたいと言っているようなものであって、言語表現としては愚劣である。

 

芸術は非言語的なものである、というところまではいい。しかし、だからといって作家には言語化能力が必要ない、とまでしてしまうと飛躍がある。非言語的なものを表現するには、言語化できるものとできないものを選別する必要があり、そのためには、一定の言語化能力が必要なのだ。

 

小説を例にとってみれば分かるが、小説は言語の集積でありながら、それを読むことによって読者の中に醸し出される感覚は、明らかに非言語的なものである。素晴らしい作品を読んだ後にどんな感想を言おうが、それを聞いた人がその作品を読んだのと同じ体験をしたことにはならない。「言語を用いて非言語的なものを表現する」というと、何か矛盾しているように聞こえるが、小説においては言語も絵の具や粘土と同じ素材に過ぎない。

 

芸術が非言語的なものである以上、それを説明しようとして普通に言語を用いても、ある程度の距離までしか近づけず、作品の周りをぐるぐる回ることにしかならない。非言語的なものを説明するのには、非言語を用いるしかないし、数学の問題のような明確な解答がない以上、完全な説明というものも存在しない。つまり、優れた作品評論や解説というのはポエムみたいなものにならざるを得ないのではないかと思う。

 

どんな下らない絵や音楽でも、言葉で完全に説明することが不可能である以上、それは非言語的だと言える。厳密に言うと、言語化できないのは、五感を介した「作品体験」そのものについてであって、単にデータとしてなら内容を言語化できるものもあるだろう。そして、言語化できるか否かというのは、白か黒かでくっきり分けられるものではない。だからこそ、より非言語的な領域を探るために、言語化能力による選別が必要になるのである。

 

思いつくままに書いていたら長くなりすぎてしまったので、ここで一旦切って、続きは次回に分ける。次回はここから言語化能力と作家の作品説明について繋げて書く。