間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

歪められた「アリとキリギリス」の気持ち悪さ(1)

星新一の小説を読んでいたら、イソップ童話の「アリとキリギリス」を改変した話があって、そういえば自分はこの物語が好きではないなと思った。


子供の頃にこの物語を読み聞かせられたことがあったかどうかよく憶えていないが、とにかくこれは「キリギリスみたいになってはいけません。アリのように真面目に生きましょう」といった意味の寓話として語られることがほとんどだと認識している。


この話のどこが気に食わないのかといえば、身の回り半径数メートル以内のことしか考えようともしないようなアリの小市民的態度を正しい生き方として描いているからだ。自分はキリギリス型の人間なので、冬になって餓えているキリギリスを冷笑するアリの嫌味ったらしさには反吐が出る。食料を貯め込んで貯め込んで、挙句それを何のために使うのかといえば、自分たちでちょねちょね食べるだけというのは、金を貯めまくってろくに使い道も思いつけずに死蔵させている日本人の姿とそっくりだ。


この物語は日本に伝わったときに結末が改変されたらしく、日本版ではアリはキリギリスに情けをかけて食料を分けてやり、キリギリスは改心したという結末になっている。一方、元のイソップ版ではキリギリスはセミで、アリはセミに対し「夏の間歌っていたのなら、冬の間は踊りなさい」などと糞むかつく皮肉を投げつけて見殺しにするらしい。

 

日本版は「愚かなキリギリスの間違った生き方を更生してやった。我々は大変善い行いをした」みたいな傲慢さが滲み出ていてむかつくし、イソップ版も「カスニートにキレッキレの皮肉ぶつけてやったわ。日頃の労働のストレス解消できてスッキリ☆」って感じが糞むかつく。しねや黒スーツ共。


とはいえ、自分は別にキリギリスを助けるべきだなどと言うつもりはない。アリが嫌らしい小市民だとすれば、キリギリスは刹那的なバカである。バカはバカなりに人生を楽しんで刹那的に死ぬ方が幸せかもしれないのだから、それを助ける助けないは大して重要ではない。

 

しかし、やりたいこともせずにただ黙って真面目に働くことが自分には正しい生き方だとは思えない。アリがそれで楽しく生きているのならいいが、人間はアリと違って、食うためだけに生きているのではなく、もっと高次の意味を求める生き物である。

 

そもそも、生き方に正しいも間違いもあるわけがないのに、我を押し殺して働くことを美徳とする風潮が蔓延しすぎて、日本は非常に息苦しい国になっている。このことは、この国に自殺者が多いことから見ても分かるように、多くの人が感じているはずである(それもキリギリスよりむしろアリ型の人間の方が強く感じているのではないかと思う)。

 

キリギリスに対する風当たりが強く、アリ達もまた不満を抱えて働き続けるという社会は、一体誰が幸せになれる社会なのか。

 

に続く。

絵を売る

ネット上には作家が絵を販売するためのサイトがいくつかあるが、それらのサイトの状況を眺めていると、「アートをどこまでも大衆化していくとどうなるか」という社会実験を見ているような気分になった。

 

それらのサイトの大半は薄利多売に傾斜していて、買い叩きと叩き売りの応酬が繰り広げられていた。強気な値段を付けている作家もいるにはいるが、売れているものはほとんど見かけない。それも無理のない話で、ネットでどこの馬の骨とも分からない作家の絵を買う人間などごく僅かだろう。売れているのは数千円の低額商品ばかりで、それも売れやすいモチーフ「女性のポートレート」「草花」「動物」を描いたものが非常に多い。

 

これはイラスト系の展示や物販に力を入れているギャラリーと同じ状況で、絵画作品を売っているというよりは、インテリアや雑貨を売っていると言った方が近い。そのようなギャラリーに異常に多い「犬展」「猫展」などの安直なモチーフの展示に見られるように、売ることに傾斜しすぎると、内容はどんどん希薄になり、作品は単なるグッズ化していく。グッズとして売る場合、高尚なコンセプトや思想性はかえって邪魔になる。

 

もちろんギャラリーならばそれぞれの特色があるので、各々が好きにやればいいのだが、ネットの販売サイトのように玉石混交の市場が次々と薄利多売に支配されていくと、当然作家はその値段分の仕事しかしなくなるので、長い時間と大きな労力が必要とされる大作が生まれなくなる。これは作家がSNSに作品を作ったそばからアップして、即座にレスポンスを受け取ることができるようになったのと似ていて、こういうことを繰り返しても、作家としての制作力は一向に向上しない。工業製品のように大量生産が不可能である以上、薄利多売に走っても自分の首を絞めるだけである。

 

絵みたいな極めて趣味的な性格の商品を売ろうというときには、売り場の雰囲気作りが重要なのであって、ああいうサイトで落書きに滅茶苦茶な高値を付けているユーザーや、露天商みたいな叩き売り価格で販売しているユーザーなんかと一緒くたに並べられたら、売れるものも売れないだろう。どんな綺麗な服でも貧乏臭い露店で売られていたら購買意欲は薄れる。絵は生活必需品でないからこそ、そういう部分に気を配らなければならない。

 

絵という商品は実用性皆無で、極めて趣味的な性格のものなので、いくら安くしようが買わない人は絶対買わない。生活必需品でなく消耗品でもない物の需要は元々かなり限られているのだ。こういうものを作って売って継続的に食べていくということができるのも、ごく一部の人間だけであり、これは誰にでもできる一般的な仕事とは言えない。これを沢山の人がやろうとすると、当然のことながら供給過多になってしまう。大量の作家がせっせと大量の絵を描いても、絵を飾る壁はそんなにないし、飾りたいと思う人もそんなにいないのである。

 

もはや日本の現代美術作家にとって作品というものは、商材ではなく、自分が作家であるという証拠品、あるいは名誉を得るためのステップに過ぎなくなっているのではないか。テレビに出ているお笑い芸人にしても、最初は漫才やコントをやるのが活動の中心だが、売れてくるとそういうことは段々とやらなくなり、CMに出たり番組の司会をやったり、役者になったりする人が大半である。どの業界でも「作品」を収入源にして生活していくのは実に効率が悪いのだ。

 

前にも書いたが、作家も大半は作品の売り上げではなく、全く別の仕事をしたり、どこかの学校で講師をしたりして生活している。しかし、作品を売ることで食えないのであれば、それはもう職業とは言えないのではないか。今どき詩人や冒険家を職業とは言わないように、実際に収入を得ている職業とは別の、単なる肩書きに過ぎなくなっているように思えてならない。

ギャラリーに対して思うこと

自分は大阪に住んでいて、よく近県のギャラリーを見て回っているのだが、いつも思うことがある。それは、ウェブサイトがあまりにもいい加減な店が実に多いということである。

 

デザインがださかったり見づらかったりするところもあれば、全然更新していなくて営業しているのかいないのかすら判然としないようなところもある。というか、そもそもウェブサイトがない店も結構ある(「このご時世に・・・」とは思うものの、これはネットから来るような一見客をはなから相手にしていない店であることもあるので、一概にいい加減な店とまでは言えないが)。

 

サイトの情報がいい加減という部分については、展示の情報を載せるのが遅い店が実に多い。酷いところだと会期の終わり頃になってから情報を載せたり、最後まで全く載せなかったりする。しかもこれが貸しギャラリーだったりするので、展示している人は文句言わないのだろうかと思う。展示をする側としても、見に行く客側としても、1ヶ月前ぐらいには告知してほしい。

 

あと、たまにあるのが画像が1枚もなく、テキストだけの告知。これは場合にもよるが、知らない作家の展示だったら画像がなければ何も分からないので、興味の持ちようがない。こんなんで見に行く奴いねえだろと言いたくなる。誰だか知りもしない作家の名前を律儀に検索する人などほんの一部だろうし、せめてDMの画像ぐらいは載せてほしい。

 

最近はTwitterFacebookを利用している店も非常に多い。これはきちんと更新されていれば情報収集に便利な一方、複数利用しているうちの特定のSNSのみ頻繁に更新したり放置したり、そのせいでサイトの方が廃墟化していたり、情報が統一できていない店が目に付く。やるならちゃんとやってほしいし、SNSを始めたせいでサイトを放置するぐらいなら紛らわしいので最初から作らない方がいいのではないかと思う。ギャラリーのスケジュールが埋まらなくて更新する情報が何もないとかなら仕方ないが、普通に営業しているのにサイトを放置する神経が分からない。

 

個人的にはSNSでの情報はすぐに流れてしまうし、ノイズが多いのであまり使いたくない。SNSで適当に流し見するぶんには、店が発信する情報を多方面からかき集めるよりも、ギャラリー巡りをしている人がレポートして情報を流してくれているので、そういった人のTwitterでも見ている方がまだマシだったりする。

 

自分がよく見ている陶器のウェブショップだと、入荷情報をメールマガジンで知らせてくれるところが多く、ギャラリーもメルマガにすればいいのにと思う。DMは大量に送ると送料が馬鹿にならないし、SNSは確実に見てくれるか分からないのだから、芳名録には住所ではなくメールアドレスを書いてもらった方がいいような気がする。しかしギャラリーに来る客にもオーナーにも年配の人が多いので、そういうことをやろうとする人があまりいないのだろう。

 

最後に、サイトのデザインがださい店についてだが、これは美術品を取り扱う店のくせにデザインがださいという時点で何か危うげなものを感じてしまう。あまりに古くさいデザインだと行く気が失せる。まあそういう店は金を持っている年配の客しか相手にしておらず、滅多に絵を買いもしない一見客なんかどうでもいいと思っているのだろう。ギャラリーも商売である以上、そういう姿勢も否定はできないので、それについてはこれ以上何も言うことはない。

同じようなものばかり見せられる

ここ数年で、インターネットで見ているページが著しく偏ってきているのを感じる。それが自分の嗜好の問題ではなく、検索エンジンにあるような気がしてならない。

 

ネットを使うには、ほぼ100%検索エンジンを介することになるわけだが、その検索エンジンもまたほぼ100%がGoogleなのであって、それ以外のところからネットの世界を覗くことは滅多にない。Google以外の検索エンジンというと、日本ではYahooが大手だが、Yahooの検索エンジンGoogle検索エンジンを流用しているらしいので同じことである。それ以外だとBaiduやBingなどがあるものの、これらを使っている人はほんの僅かな数でしかない。

 

で、冒頭に述べた検索結果の偏りがGoogleにはある。これはGoogleの検索システムのせいでもあるが、それに合わせて、検索結果の上位に表示されるように様々なサイトが対策をするようになったことが大きい。このようなSEO対策が当たり前になった結果、Googleでは何を検索してもTwitterFacebook、Yahoo知恵袋、食べログNaverまとめ、2chまとめなどの有名なサイトばかりが表示されるようになった。実際、普通に検索してもこんな誰も見ていないようなブログに辿り着く人はほぼいない。

 

テレビがメディアとして衰退し、みんなが同じものを見ている時代が終わったという話はよく聞くが、実はネットの時代になっても検索エンジンがこんな有様なので、結局はみんな同じようなものしか見ていないのではないかということを最近よく思う。「昔のインターネットはよかった」などという話をする気はないが、このような現状にうんざりしていることはどうしようもない事実である。なんだか最近、何を検索しても同じような情報しか出てこなくなったのだ。

 

「みんなと同じものばかり見る」ことの何が悪いのかといえば、つまるところ「馬鹿になるから」である。他の言い方をするなら、「思考の多様性が失われるから」と言ってもいい。みんなが同じようなものばかり見て暮らしている社会は、マイノリティの意見が圧殺される息苦しい社会でもある。こういう風潮が加速していくと、戦中の日本みたいな最悪な同調圧力社会になってしまいそうで虫酸が走る。

 

ありきたりな結論になるが、こういったネットメディアの偏りから脱するためには、やはり本を読むしかないと思う。本屋や図書館も在庫が有限である以上、得られる情報に何らかの偏りはあるのだろうが、Google検索で上位に上がってくるようなサイトは、上位に表示させるための対策だけが歪に洗練されていて、中身は無内容なものが多いので、偏り以前の問題である。

 

本はたとえ大型書店で平積みされているベストセラー本を読むのだとしても、読み終えるまでに大体何時間かは集中して読まなければならない。それに対し、漫然とネットをしている時間というのは、何十件も表示されるページを次から次へと渡り歩くので、むしろ集中力は散漫になる。

 

当たり前だが、何事も本腰を入れてやろうと思えば長い時間がかかるのであって、目に前にあるものを取っ替え引っ替えつまみ食いするようなことばかりしていても何も身につかない。実際、漫然とネットを閲覧していても、雑学的な知識はいくらでも増えるのに、それらを体系化したり結びつけて考える力はほとんど養われない。見たページの内容は右から左へ流すように忘れていくのだから当然の話である。立ち止まる時間がなければ自分の思考というのは育たないのだ。

 

自分は最近、ネットで見なくてもいいような情報をだらだらと見てしまう癖がついてしまって、本当に頭の回転が悪くなったと感じる。こういう情報過多の時代には、情報を探す技術よりも、情報を遮断する技術の方が重要だ。などと言い出すと、こんな下らないブログなんか遮断すべき情報の最たるものだろうが、まあ誰も読んでいないので大丈夫だろう。

パーティーという空間

先日、参加しているグループ展のオープニングパーティーがあったので行ってきたのだが、やっぱり自分はこういうパーティーみたいな空間が好きになれんと思った。何かの展示があるたびに、いつも感じることである。もともと人と関わるのがあまり得意でないから1人で陰気に絵を描いているのに、なぜみんなパーティーなんかをやりたがるのかよく分からない。こんなところでまでコミュニケーション能力が要求されるのかと思うと嫌になる。

 

そういえば、災害時などに見ず知らずの人たちと協力し合わなければならない状況になったとき、一番最後まで独りでもじもじしているのはおっさんであると何かで読んだ記憶がある。おばさんなんかは平時でも道端で会った人と何時間も話し込んだりするぐらいなのでコミュ力は高いし、若い人は若い人同士で固まるので次第に関係が作られていく。それに比べておっさんだけは仕事以外で人と全く関わっていない人が多く、しかも無意味なプライドを持っていたりするので、自分から他人に話しかけようとせず、最後まで孤立しているのだという。

 

いい歳こいて人見知りなんて言っているのもみっともないので、自分もパーティーではそこらへんにいる人と当たり障りのない話をしてお茶を濁している。が、それでどうなるのかと言えば、どうもならない。パーティーで会う人というのは、すぐに名前も忘れてしまって二度と会わないことが大半なので、もう話す前の段階から徒労感に襲われてしまう。コミュ力のある人ならこういう場で水を得た魚のように動いて人脈を作るのかもしれないが、酒も飲めない自分には居心地の悪いことこの上ない。

 

別に人と話すのが嫌いなわけではない。普段からこのブログにあるような雑念を弄んでいる人間なので、少人数で込み入った話をしたりするのはむしろ好きな方だ。ただ、そういった本腰を入れてする会話と、パーティーなんかで取っ替え引っ替え行われる会話は別物なのである。

 

会話に参加する人数が増えれば増えるほど、そこで扱われる話題は最大公約数的なものになりがちで、よく知らない人たちとの飲み会では、大抵「どこの出身ですか」みたいなところから始まって、「◯◯県といえば△△がおいしいですよねー」みたいな話をすることが大変多い。こういう中身のない会話をしながら、その実、お互い「死ぬほどつまんねえわ」と思っているのではないかという気がしてならない(少なくとも自分は思っている)。相手が気の合う人なら、その後、もっと深い話にまで発展させられるかもしれないが、合わない人が相手だと、延々とこの中身のない会話を上滑りさせていくだけとなり、あほみたいに疲れる。相手にも疲れされて申し訳ないと思う。

 

最初に述べたとおり、そもそも作家の展示会場でパーティーなんかやる意味がよく分からない。みんな絵なんかろくに見ないで酒飲んで騒いでるだけじゃねえかと思うし、大して儲かってもいないくせに持ち出しでパーティーを開いて、絵を買ってくれもしない人に毎回お礼状を出して、いまどき高級百貨店でもそこまでしないだろうに、いつまでバブリーな慣習を引きずっているのか。シンプルに絵を見てもらえればそれでいいじゃないか。酒も食べ物も喧騒も、作品鑑賞の邪魔にしか思えない自分には居場所がない。

 

こんなにぶつくさ言うのなら、そもそもパーティーなんか行かなきゃいいじゃんというのは尤もなのだが、まだどこかで「何かあるかも」と卑しい期待をしてしまう自分がいる。輪の中に入っていくこともできず、かといって孤高を貫くこともできず、いつまでも中途半端で一番損な位置に立ったまま動けない。

 

「自分のなかの泉の水も飲めずに ひとがお菓子を食べるとこばかり見ている」

山本精一「赤ん坊の眼」)