間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

歪められた「アリとキリギリス」の気持ち悪さ(2)

の続き。

 

金をなんのために稼ぐのかと言えば、使うために稼ぐのであって、先ほども書いたように、貯めこんで安心するだけというのは下の下である。自分はずっとキリギリス人生まっしぐらだが、金を全く稼がなくてもいいとは思っていないし、むしろ何らかの目的のために稼ぐことは必要だと思っている。今のところ自分のやりたいことにあまり金がかからないので、がむしゃらに働いてはいないというだけで、金が必要なときは必死に働く。使い道もなく、ただ無目的に金が欲しいと思わないことがそんなに悪いことなのか。


愚痴全開になったが、「アリとキリギリス」に対する様々な解釈は非常に面白く、地域や人種によっても捉え方が違ってくる。例えば、イソップ版の「アリとキリギリス」には、本来別の寓意があって、アリのようにせこせこと財産を溜め込んでいる者というのは、餓死寸前の困窮者にさえ救いの手を差し伸べないほど冷酷で独善的な吝嗇家であるのが常だ、という意味合いもあったという。生き物である以上、最終的に死は避けられないので、食料蓄積のみで生を終えたアリより、自らの快楽を追及し生を謳歌したキリギリスの方が善とする見方をする人もあるようだ。これは以前に当ブログで触れた、ヘッセの「クヌルプ」でも描かれていたテーマである。

 

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ビートたけしはこの童話を「アリは働きすぎて過労死し、キリギリスは残された食料で冬を越した」などと、現代を風刺するギャグにしたこともあるらしい。そして、冒頭で挙げた星新一の小説だと、アリは食料を貯め込みすぎて巣の中がパンパンになり、圧死者まで出る始末で、むしろキリギリスに頼んで消費してもらわなければならないのではないかと気付く結末になっていた。


生物としての話をするなら、キリギリスはそもそも寿命が2ヶ月程度しかなく、食料を貯め込まないのは当たり前の話だし、働きアリの中にも20%ほどの割合で何もしていない怠けアリがいるのであって、この物語で刹那的な遊び人と糞真面目な労働者の役を与えられたのは、資本主義にとっての都合の良い解釈に過ぎない。

 

単なる小市民的ドヤ顔を道徳にすり替えるこの気持ち地悪さと糞みたいな価値観にはいい加減うんざりする。他人から後ろ指をさされないことだけに心を配って生きてきたような人間が、偉そうに「お前たちも私のようにつまらなく生きろ」みたいなことを言っているのを見ると本当に虫唾が走る。


一庶民であることや、普通であることに歪んだプライドを持っている人間というのは実に厄介で姑息な存在である。ネットではこういう人たちをよく見かける。彼らは「自分は標準的で普遍的な人間である」という立場を取ることにより、絶対的な安全圏の中で隠れ蓑を纏う。そして、何かを目指して安全圏から踏み出した人間が躓くと、待ってましたとばかりに自己責任論を大合唱しながらあざ笑うのである。彼らが決まって口にする「普通が一番」などという言葉は、何のリスクも冒さず普通でいながら、しかも一番でもありたいという傲慢さがよく顕れている。


世の中のほとんどの人間は一庶民である。そんなことは言われるまでもなくみんな分かっているのであって、それはことさらにひけらかしたり、誇ったりすることではないのだ。