間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

できることをやるだけ

ぼんやりと「去年はマジで糞だったなあ」と思いながらネットをしていたら、そのような状況を「大殺界」とか言って昔テレビに出ていた占い師のおばはんのことを思い出した。血迷って調べてみたところ、自分は一昨年からもろにその大殺界とかいう時期に突入していることになっていた。しかもこの大殺界は3年続くそうなので、占いによると今年も糞らしい。ふざけるな。


自分は占いなどというものは全く信じない人間だが、こんなものを見てしまうということは、よほど精神が腐っているのだろう。普通は1年を通してまるっきり悪いことだらけの年もないだろうし、良いことだらけの年もないはずで、思い出してみればどちらの出来事もあって当たり前なのである。当てはめようと思えばどうにでもなるのだ。占いは未来を見るものだが、過去を振り返って答え合わせをしてみると、ぼんやりと当たっているような当たっていないようなことしか言っていない場合がほとんどである。


ということを前提とした上で言わせてもらうが、マジで去年は糞だった。もちろん良いことも少しはあったが、トータルで見ると相当負けが込んでいる。ほとんど9:1ぐらいじゃないかと思うほど糞な出来事だらけだった。ひとつひとつ挙げるのももはや煩わしい。


こんな糞な年が今年も続くのかと思うと本当にどす黒い気分になってくるが、大殺界は一昨年から始まっていたというのに反して、一昨年はかなり幸せな方だった。というか、人生で一番幸せと言っていいぐらいの年だったので、一昨年に関して言えば全然当たっていない。今年も外れてくれと思うが、そもそも占いなどというものは根本の発想が他力本願なのであって、自分から動かなければ良いことがないのは当たり前なのである。こんな下らないものを気にするよりは、失敗しても何かをやり続けた方がよっぽど実りがあるだろう。年明けから愚痴で始めてしまったが、腐らずマイペースにできることをやっていきたい。

無用の美

銅版画をやったり陶器を集めたり、自分の興味が科学技術の進歩とは正反対の方向へどんどん向かっているのを実感する。例えば、お茶を飲むコップにしても、今は真空断熱構造のコップが1000円ぐらいで売られていて、そのコップだと中の氷が丸1日溶けずに浮いていたり、熱いお茶も全然冷めなかったりするそうである。金属製なので当然割れることもない。

 

それに比べて自分が集めている陶器のコップは、保温性は低いし、すぐ汚れが染み込んだりするし、落とせば簡単に割れてしまう。利便性で言えば、もっと優れた商品がいくらでもある。ただの容器として見ても、100均のプラスチックのコップの方が軽くて割れないという利点で優る。

 

にもかかわらず、自分は真空断熱のコップもプラスチックのコップも全然欲しくない。好きな作家の陶器は熱烈に欲しい。それは単純に物体としてその器を素晴らしいと思うからで、それがどう役立つかとか、値段がどうかという点はわりとどうでもいいのである。単なる家電や機械には、そういった物体としての素晴らしさを感じるものがほとんどない。もちろん、それらの製品の利便性を否定する気はないし、自分自身その恩恵に与っているが、自分にとってそれらの製品は、ただの道具に過ぎず、思い入れも愛着もないのである。便利なものを使いたいと思うのは誰でも当たり前のことで、現代の暮らしは普通に生活していても、何もかもが効率や利便性優先になりがちである。それは便利であると同時に、息苦しさやせせこましさも付きまとう。

 

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別に時代の進歩に意図的に逆らおうというつもりはないが、せめて趣味の範囲内ででも、その現代的な価値観から少し離れ、役に立たないものや無駄とも思えるようなものを身の回りに置いておきたいという気持ちがどこかにある。何もかもが効率主義に傾いていく有様は、人間が機械に接近しているのだとも言える。それに対して、無駄なものの存在を許容することは、むしろ人間的である。

 

こういった考え方は、どちらかというと、民芸運動のいわゆる「用の美」などとは反するものだ。自分としては「用の美」の思想は、提唱された当時は理があったのだろうと思うが、現代においては既に形骸化しているとしか思えない。先ほど述べたとおり、使いやすさの中に本当の美が宿るのであれば、現代において最も美しいのは100均の商品ということになる。しかしそんなことを言っている人は見たことがない。やはり美という概念は、単なる効率主義とは違うのだ。

 

「用の美」を提唱して売られている民芸の器なんかも、実用実用と言うわりには懐古趣味の領域から進歩していないし、値段も当たり前のように高い。そもそも、現代においては、手作りの品を買うという行為そのものが贅沢なのであって、アーティスティックな現代陶芸だろうが民芸だろうが、大差はないのである。

 

自分にとってはどちらも人間の変なこだわりがあって好ましく思えるので、別に現代陶芸だからとか民芸だからとかで区別するつもりはない。良いと思うものを買うだけのことである。

ベストアーティスト2017

毎年ひとりで勝手にベストアーティストというのを決めている。「その年初めて聴いた音楽」の中から良かったものをだいたい3組ぐらい選んで決める。あくまで自分が初めて聴いた音楽の中から選んでいるので、物凄い大御所と知名度ほぼ0の新人が同時にランクインしていたりする。

 

ブログに書くのは初めてだというのに、今年のベストアーティストは候補が全然いなかった。なので、先月ぐらいから急遽ツタヤに行ったりヤフオクでCDを買ったりして仕入れた中から選び、そして何とか3組のアーティストを決定することができた。ではまず3位から。

 

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3位は見汐麻衣。Mannersや埋火というバンド名義でも活動しているシンガーソングライターで、Mannersは一昨年のベストアーティストの3位に入っている。ソロ作品は今年の11月に初リリース。まあほぼ同じアーティストがランクインしていると言えばその通りなのだが、歌モノとしての聴きやすさがあるので、自然とリピートしてしまう。

 

Mannersの楽曲がどこか不安な薄暗さを漂わせていたのに対し、ソロ作品は妙に明るく、そしてエロティックな要素が混入されている。元々この人の声や歌い方は、童謡でも歌っているかのように朗らかで、ちょっと変わったことをやっているタイプのアーティストにしては珍しいほど聞き取りやすい。似たようなポジションにいる山本精一あたりと組んで歌モノデュオをやってほしい。この「歌のおねえさんとおにいさん」的な歌い方の2人で怪しげな曲を作ったら、かなり面白いものができそうな気がする。

 

そのような歌と相まって、今回のソロ作品では、音作りの面でも少し古い感じの音を使っているので、何か色の褪せた昔のビデオテープでも見ているような印象を受けた。別に自分はその世代ではないのだが、どうも最近、こういったシティポップ風の懐かしい音に惹かれる。余談だが、ゆらゆら帝国に始まり、Ogre You Asshole前野健太、そして見汐麻衣もそうなのだが、サウンドエンジニアの中村宗一郎が関わっているアーティストはやたらと当たりが多い。

 

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2位はなぜかEarth, Wind & Fire。自分は普段、好きな音楽を散発的に手に取って聴いているだけなので、自分の聴いている音楽のルーツがどこから来ているのかなどとはあまり考えない。しかし、ここ数年よく聴いているファンクの要素が入った音楽は、明らかにこの辺りから来ているので、ちょっと軽い気持ちで大御所を聴いてみた。凄すぎてぶっ飛んだ。

 

そういえば以前、Sly & The Family Stoneを聴いたときも同様にぶっ飛んだことを思い出した。ブラックミュージックのクールさときたら他の追随を許さないほどなのに、さらに強烈なグルーヴ感で盛り上げるパワーも持ち合わせているのだから、これはもう感服するしかない。この時代の音楽にも懐かしさの漂うシンセサウンドが使われていて、やはり惹かれてしまう。なんか大御所すぎて今さら感想なんか書く必要性を感じない。

 

 

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1位はD.A.N.。日本の若手バンド。最近は国内の若手バンドはあまり漁っていないのだが、Ogre You Assholeと対バンしていたのを知って聴いてみたらめちゃくちゃ良かった。こういうアングラ感の漂うバンドにしてはかなりの人気が出ているようで、今さら取り上げるのも随分遅れている気がしないでもない。というのは、実は結構前からD.A.N.の名前は知っていたのだが、ちらっとPVを見た程度で「なんかスカしてて気に食わんな」と片付けていたのである。あほやった。

 

このもわもわとした変な空間を感じさせる音やボーカルは、浮遊感があって実に心地よい。いくつもの曲で多用されているマリンバ(?)みたいな音が空間をほのかに色付けしていて、無味乾燥にもならずに済んでいる。結構リズム感が強くてのれる曲もあるのだが、もしライブで聴いたら「のる」というよりも「漂う」という感じに近くなるのではないかという気がする。バンド結成が2014年で、まだそんなに音源が出ていないので、今後しっかり追いかけて聴いていきたい。

 

4位以下はMikael Simpson、Go The Find、王舟など。冒頭に書いたとおり、今年は総数が少なめだったので、来年はもうちょっと積極的に漁ろうかなと思う。

関西蚤の市

いつものようにだらだらとネットを見ていたら、「関西蚤の市」というイベントが今月の2日から3日にかけて開かれているのを知り、急に思い立って行ってみた。場所は阪急神戸本線仁川駅を降りてすぐの阪神競馬場。競馬場の中に広い公園があって、そこが会場になっている。


今年で開催4回目だそうで、聞いた事のないイベントだったため、軽い気持ちで足を運んだところ、なめていた。会場に向かう電車からもう混んでいて、梅田駅レベルの人混みがそのまま会場に流れ込んでいた。蚤の市に行く人だけでなく、レースも通常通り行われているため、競馬場に向かうギャンブラー共も加わって、相当な大入りである。オシャレなアンティークを求める若い女性やおハイソ民と、小汚い格好のギャンブラー共との対比が鮮烈。こんなことを言っている自分はおそらく外見上は後者に分類されそうである。


会場に着いて少し見回った時点で、なめていたのは混雑ぶりだけでなく、店の数もだということに気付いた。当初、2時間もあれば余裕で見て回れるだろうと踏んでいたのだが、結局3時間以上かかった。店が130店ぐらい出ている上、物が骨董品なので細々とした商品が多くて見るのに時間がかかる。園内はかなり広いものの、家族連れで来ている人なども多くて、人気店の周りは身動きが取れないほどだった。自分は1人で行ったので好き勝手に回れたが、誰かと一緒に行っていたら絶対はぐれていたと思う。店の配置もけっこうバラバラなので、回るルートを考えてから動かないと訳が分からなくなる。


混雑しているだけあって、集まっている店は良い品揃えのところが多かった。関西だけでなく、全国の洒落た店が集結している。関西の骨董市には四天王寺の「大師会」や「京都アンティークフェア」など、いくつか行ってみたのだが、「関西蚤の市」はそれらの骨董市のように年寄りだらけの辛気臭さは全くなく、むしろ客は若い人ばかりで活気があった。最近はこういったアナクロ趣味の人が増えているのか、過去に行った市の中では「京都ふるどうぐ市」なんかも若い人が多くてセンスが良かった。


個々の店についてはいちいち書いていたらキリがないので省くが、品揃えの良い店が非常に多くて、適当に流し見するのは勿体ない。骨董市というと日本のガラクタばかりのところが多い中で、このイベントは西洋のアンティークがメインなので、見慣れないものばかりで実に楽しい。骨董だけでなく新品の陶器もかなり出ていて、全国の民芸の器や北欧食器も大量に見られた。

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購入物1 マーブル塗装の壺

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購入物2 木製の猪口

と言いつつ、結局買ったのは細々としたものばかりで、思っていたほど金は遣わなかった。手当たり次第に買っていると、ただでさえ狭い家の中が骨董品や陶器で埋め尽くされるので、最近こういうものを買う前にはよく考えて、ちょっといいなと思ったぐらいでは手を出さないようにしている。それでもなかなか良いものが買えたと思う。いろんな店を見回るだけでも相当楽しめた。時間と気力があればぜひ来年も行きたい。

壁を見る

少し前に杉浦貴美子という人の「壁の本」という本を買った。タイトルのとおり、壁の写真を集めた作品集で、ずっと前から欲しかった本である。絶版のようでなかなか手に入らなかったのだが、最近やっと購入することができた。

 

最近は描きたい絵が抽象画に接近していて、その嗜好性は素材の質感や経年劣化によるマチエールに向かっている(骨董品や陶器の収集もこれに関連している)。そのため、「壁の本」に収められている古い壁の写真にも強い興味があって、内容を見てみると、もうほとんどこれをこのまま絵にすればいいんじゃないかと思うぐらい素晴らしく感じた。帯文にも「街中に絵があふれている」とあって、著者もこれを絵画的な視点から見ている。

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自宅付近で撮影

自分もこういった自然に劣化したものの美しさを再現したいと思っていろいろとやってみてはいるのだが、人間が作為的に作ったものと、自然にそうなったものの間には、埋めがたい溝がある。限りなくそれに近づけることはできるだろうし、自然にできたものが何よりも優れていると言うつもりもないのだが、再現はどこまで行っても再現であり、オリジナルにはならないのである。

 

鉄扉の錆びひとつ取ってみても、表面の塗料が剥がれ、その部分が長い間風雨に曝されて、錆びが下に流れ、跡ができていくのであって、こういうものを絵画に取り入れ、効果として確立するのは難しい。なぜなら、こういった現象は、生み出す過程にあることではなく、壊れる過程にある現象だからである。これを再現しようと思えば、それは単に自然の作用をなぞる行為や、偶然を選び出す行為になり、一般的な意味での絵を描くという行為からは離れていく。写真に撮るだけなら、選び出すだけでも成り立つかもしれないが、絵を描く人間としては、絵描きの仕事がそこで終わってしまっていいのだろうかという躊躇いがある。また、このような自然物が土に還る過程を美意識をもって眺めるとき、表面的なことだけではなく、そこに流れた時間の集積を見ているのであって、即席で作られた再現物にはそういった重みがないように感じてしまう。これは先入観によるものだろうか。

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自宅付近で撮影

まあいろいろと思うことがあって、答えは出せていないのだが、写真を撮るのは絵のヒント探しにもなるので、自分でも壁の写真を撮ってみた。すると、思っていたより良い写真がたくさん撮れた。都合の良いことに、自分が住んでいるところからは、少し歩けば小汚い建物が密集している地区もあるので、こういう写真と撮るのには事欠かない。もう10年近く住んでいて、近所に撮るものなんかないと思っていたが、こうしてまた新しい視点から写真を撮るのはとても面白い。近所だけでなく、他の場所でもやってみようかと思う。