間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

無自覚にパクることの恐ろしさ

先日、自分が過去に作った映像作品を何気なく見返していたら、その中の1シーンが、某有名アニメの1シーンのパクリであることに突然気付いた。変な汗が出た。

 

自分にはパクろうという意志は欠片もなかった。本当に全くなかった。無自覚にパクってしまったのである。納品前に気付いていたら絶対修正しているし、今まで気付かなかったことが恥ずかしい。その映像作品は、完成してから既に多くの人の目に触れている。幸か不幸か、類似を指摘されたことはまだない。しかし、気付いてしまった今、自分の目にはどう見てもパクリに映る。

 

自分は元ネタとなったそのアニメが特別好きというわけでもなく、創作において影響を受けたとも思っていない。映像を作っている最中は依頼者の要望に合わせて、どうしても「それっぽい」映像をと思いながら作ってしまうことがあるため、深く考えずに「それっぽさ」に接近していったらパクリになってしまったのだと思う。つまり、こだわりなく適当な内容で済ませようとすると、そのような落とし穴に嵌ってしまいやすいのではないか。

 

パクリで思い出すのは、2020年オリンピック公式エンブレムのデザインに盗作疑惑が持ち上がった一昨年の事件である。あの事件のデザイナーである佐野研二郎氏の真意がどうだったのかは知らないし、今さら擁護する気も全くないが、もしあれが無自覚なものだったと仮定して、自分が当事者側に立ってみると、事件の恐ろしさが身に染みて分かった。

 

佐野氏のケースだと、佐野氏は「ヤン・チヒョルト展のポスター」や「ベルギーのリエージュ劇場のロゴ」という、事件が表面化するまでごく一部の人しか知らなかったであろう情報からパクっているのであって、これを事前に誰かに指摘してもらおうとしたら、専門的な知識を持つ人を大勢集めて精査してもらわなければならないだろう。

 

実際、オリンピックのような大舞台では当然そのような事態を想定して、組織委員会を通した協議を何度も重ねているようなのだが、それでも結果的によそからパクったものを出してしまうというのは、もはや本人にとってパクることが自然な癖になっていて、自覚が薄いということなのではないかと思う。もちろん、無自覚だからといって罪がなくなるわけではないが。

 

この問題は、チェックする側にもかなり難しいところがあって、絵画のコンクールなんかでも、大賞作品に盗作疑惑がかけられることが時々ある。創作物などというものは世の中に星の数ほど溢れているのであって、それら全てと比較調査して対象作品の潔白を確かめることなど現実的には不可能である。

 

物を作る人間は必ず他の作家の影響を受けている。完全に何もないところから全く新しいものが生まれ出るということはない。そして、物を作る人間は、自分が誰から影響を受けたかを完全に自覚してはいないし、自分の中にある膨大な知識の全てを把握してもいない。

 

つまり、物を作る人間であれば、無自覚にパクってしまうということは誰にでもありえるのであって、重要なのは誰かにそれを指摘されたり、自分で気付いた場合、率直にそれを認めて癖にならないように心がけることである。

 

2年以上前の事件を今さら掘りかえしても何にもならないし、これはあくまで例として挙げたに過ぎないが、佐野氏の事件を顧みるに、自分の頭の中にはキリストの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者だけがこの女に石を投げなさい。」という言葉が頭に浮かんで、佐野氏に石を投げるのが恐ろしいような気がしてしまうのである。

ホラー映画の幽霊

日本のホラー映画を見ていると、それに登場する幽霊が様々な超能力を使うのが当たり前になっていて、怖さよりも「こいつら一体何者なんだ」という部分に興味が湧いてしまう。

 

有名なところでは、「リング」の貞子が念写によってビデオテープに映像を記録したり、テレビの中から這い出てくるなどという手品師のような芸当をやってのけた。貞子は生前から超能力があったという設定なので、死後もそのような力があるということに一定の説得力があるが、その後のホラー作品では、生前ただの一般人だったはずの幽霊までそのような力をこぞって使い始め、超能力のバーゲンセール状態となった。

 

自分が見たものの中で思い出せるものを挙げてみると、

 

・瞬間移動
・壁をすり抜ける
・空中に浮く
・分身
・他の人物に化ける
・人間に取り憑いて操る
・周辺から人払いをして標的を隔離する
・標的に幻覚を見せる
・新種の病原菌を生み出す
・電子機器にノイズを発生させたり、電波妨害をする
・遠隔操作でドアの鍵を開け閉めする
・昼でも周囲を夜のように暗くする
・車のエンジンをかからなくさせる

 

などの超能力を使うケースが見られた。

 

貞子の場合、純粋に呪い殺したいというのが目的なので分かりやすいのだが、その他大勢の幽霊になると、これらの超能力をふんだんに用いて標的を精神的にいたぶったくせに、最終的には「ばあ」と驚かすだけで満足して帰宅し、「・・・そのあとのことは覚えていません」などという語り手のモノローグで次のシーンに移ってしまうことが多い。これは一体何が目的なのかと思う。

 

貞子や伽椰子のような凶悪な幽霊はともかく、「ばあ」で満足するタイプの幽霊は、見た目が怖いだけで、実は単なるかまってちゃんなのではないか。「誰でもいいから呪い殺したい」みたいな強烈な願望を持っている人だけでなく、「かまってほしい」ぐらいの気持ちの人まで現世に残留されるのはちょっとどうかと思うので、特に強い目的がないのであれば早めに成仏してほしい。

陶器の手ざわり

 ここ1年ほどで、急速に陶器収集の趣味が高じて、気が付くといつの間にか食器棚から100均の食器が駆逐され、陶芸作家の手作りの器が入り切らないぐらい並んでいる。陶器、つまり焼き物が趣味だと言うと、いかにも爺臭い印象がある。自分も1年前までは焼き物なんか「なんでも鑑定団」に出てくるような爺の趣味でしかないと思っていた。事実、骨董市なんかに行くと、そういう類いの焼き物の方が圧倒的に多いのだが、一方で、最近では若手の陶芸作家が増えていて、彼らの作品の中には、爺臭さとは程遠い、洗練されたセンスのものがいくらでもある。

 

日本各地で陶器のイベントも開かれていて、人気は高まっている。自分が住んでいる大阪では「灯しびとの集い」というイベントが年に1回開かれていて、陶器に興味を持ったのもこのイベントに行ったのがきっかけだった。このイベントは陶器だけでなく、ガラスや彫金、染色、木工など、手仕事の作家を集めたイベントである。インターネットが発達して何でもかんでもデータ化されていく反動なのか、こういう確かな手作り品を好む人はかなり増えてきていると思う。前から知っている人にとっては今さら何言ってんだという感じかもしれないが、自分にとっては非常に新鮮な世界だった。

 

自分は元々は映像制作をしていて、データだけで実体のないものを作ることに半ば嫌気が差していた。その反動で、銅版画などというアナクロニズムもいいところの表現に行き着いたわけだが、絵を描けば描くほど、自然と質感を追求するようになり、そのために古い壁やら錆びた金属やらを観察するようになった。質感といえば陶器にとって最も重要と言ってもいい要素で、陶芸家は質感表現に関しては画家を凌ぐエキスパートだと思っている。土とは別に、金属の質感も好きで、銅版画の表現をいろいろと試行錯誤したり、金属の古道具を集めたりもしているのだが、それについてはまた別の機会に書く。

 

土と火が生み出す色彩と質感のバリエーションの豊富さときたら、いくら見ても見飽きないほどで、陶器の世界を知れば知るほど好きな作家がどんどん増える。自分の貧しい懐具合では、いくら買っても到底追いつかないぐらい素晴らしい器が人知れず出回っている。

 

「買う」ということについて書くと、現代の陶芸作家の作品の大半は、爺臭い高級な焼き物に比べれば格段に手頃な価格である。もちろん、100均とかホームセンターに売っているような大量生産の食器に比べれば高いが、コップ1個で大体2000〜3000円ぐらいのものだ。これを高いと思わなくなっているぐらいには陶器に魅了されている。

 

何にしても、手作りの品がたかだか数千円というのは、物を作っている人間であれば大して利益が出ていないのはすぐ分かることである。最近は陶芸作家がネットで直接販売していることもあるが、大抵は陶器を扱う店に委託していて、材料費や販売手数料なんかを考慮すると、薄利多売であるケースがほとんどだと思う。実用性がある分、絵に比べればまだ売れやすくてちょっとうらやましい気もするが。

 

陶器は実用品であると同時に、芸術作品でもある。自分はどちらかというと、作品を買って作家を応援するという感覚で購入している。作品、というと、自分が絵を売る人間でありながら、実は他人の絵を買ったことはほとんどない。それは、買うほど素晴らしいと思う絵は自分で描かねばならないと思うからでもあるが、なんとなく自分が絵を売る人間のくせに他人の絵を買わないということに変な後ろめたさがあって、その埋め合わせに陶器を買っているような気もする。

 

陶器を買い集める中で、改めて重要さに気付かされたのが、「実物を手に取ってみる」ということである。ネットで買うこともあるにはあるが、可能な限り実物を見られる場所で買うようにしている。というのは、写真だとどうしても感触や微妙な色加減を伝えるのに限界があるからで、アナログで絵を描いていれば、その微妙な差を感じ取る力は自ずと身に付く。絵描きがネットに上げた画像だけで自作を判断しないでほしいと思っているのと同じように、陶芸作家もできれば自作を手に取って見てほしいと思っているのではないだろうか。

 

また、実物を手に取って買うというのは、実際には望むと望まざるに関わらず、ネットだと売り切れていて買えないことが非常に多いせいでもある。人気作家の作品なんかになると、ネットショップだろうが実店舗だろうが、わざわざ整理券を配ったり販売開始時刻が事前に告知されたりするような有様で、買おうにも買えなかったりするのである。欲しくても買えないものを指をくわえて画面越しに眺めているよりは、手の届く範囲で実物を見て買う方が確実だ。陶芸作家は田舎に住んで制作に励んでいる人も多いので、良い作品を集めた店が地方にもたくさんある。

 

長くなった。
最後にコレクションを1つ自慢して終わりにする。

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この赤いコップは京都で作陶されている井内素さんの作品で、陶器収集で一番最初に購入したものである。手捻りといって、ろくろを使わないで手で直接成形しているので、長時間手に持っていた紙コップのように歪んでいたり、指の跡が残っていたりして、面白い変化に富んでいる。この赤色の生々しい質感は、ちょっとグロテスクにも見えるぐらい存在感があって、初めて見たとき、小綺麗な他の器の間で明らかに異質の佇まいを放っていた。なんだこれはと目に留まった。

 

この人の作品も例に漏れず人気があって、目当てのものを買おうとするとなかなか手に入らない。散々ネットで探したり、近所の店を回ったりした挙句、奈良まで探しに行ってやっと入手した。実際に使ってみると、形の歪みにほどよい脱力感もあって、このバランスが自分にとっては実にちょうどいい。

MVは贅沢品

自分は作家活動をしていると書いたが、具体的に何を作っているのかというと、銅版画やアクリル画である。映像制作もする。最近は粘土で遊んだりもしている。全部ただの遊びだろと言われたらその通りで、「リリィ・シュシュのすべて」という小説の中に「いろんなことを手広くやる奴に本当の才能は宿らない」という言葉があるように、どれもそれで食えたりしているわけではない。それでもたまに絵を買ってくれる人がいたり、映像制作の依頼が来たりするので、なんとか続けられている。

 

話がそれたが、今回書きたいのは、映像制作についてである。映像制作については、正直なところ、やって「いた」と表現した方が正確かもしれない。というのは、最近はあまりにも作るのが辛くて半ば廃業しようかと思っているところだからである。

 

理由はいくつかある。並べてみると、
・「1本作るのに時間も手間もかかりすぎる」
・「自分の制作技術が時代遅れになっている」
・「儲からない」
・「たのしくない」
などがある。

 

自分が依頼で作っているのは主にミュージシャンのMVで、これを作るに当たってどうしても気になる点が1つある。それは、「これ本当に作る意味あるのか?」ということで、金を貰って作っているのに宣伝効果が薄くて妙な罪悪感に苛まれている。

 

自分のような無名の作家が請け負うのは、当然無名のミュージシャンのMVで、せっかく彼らが金を出してMVを作り、youtubeなんかにアップしても、再生数が1000にも届かなかったりすることがざらにある。そういうわけで、毎回自分は「これじゃただの思い出作りにしかなってないな」と溜息をついたりしているのだが、あくまで自分の仕事は映像を作ることであって、宣伝効果があるかどうかまでは責任が持てないし、結婚式のビデオなんかはそもそも思い出作りにしかならないのに、MVより高いギャラを取って恥辱的な映像を納品したりしているのでまあいいかと自分を納得させている。

 

自分がやっているMVの仕事の何がおかしいのかというと、元をただせば、youtubeの再生数が1000にも届かないようなミュージシャンが金を出してMV制作を依頼してもあまり意味がないのだと言うしかない。もちろん、依頼を貰えれば嬉しいし、真面目につくる。相手がどういうつもりで依頼しているかも分からないのに、「やめたほうがいいですよ」なんてことは立場上言えない。しかし、宣伝の方法としてはどう考えても間違っているのであって、もし映像の力で有名になりたいのであれば、もっと有名な映像作家に依頼するのが筋というものである(めちゃくちゃギャラ高いだろうけど)。

 

MVというものは言ってみれば贅沢品なのであって、最低でも制作費を回収できるぐらいの人気が集まるまでは、音源だけの発表で我慢するなり、自分たちで何とかしてビデオを撮るなりした方がいいと思う。最近はカメラの性能も凄いので、適当に演奏しているところを撮るだけでもわりと様になる。正直、「俺に制作依頼するその金でカメラ買えばいいじゃん」と思うし、なんならiPhoneで撮ったって良いものは作れる。そのせいでプロの映像制作者は要りもしないようなエフェクトをゴテゴテに盛って、プロの仕事ぶりを過度にアピールしなければならなくなったりしているが。

 

最後になったが、元から思い出作りのつもりで作る分には別に何の文句もない。映像の仕事というのは元々そういう性質も持っている。自分はプロの制作会社のことまでは知らないが、MVというものは分かりやすく短期的に宣伝効果が出るものではなくて、長いスパンで見なければならないものだと思う。

作品をどう見てほしいか

前回の続き。

 

アートフェスに行って、そこに出展している海外の作家の作品を見ていると、彼らは大抵たどたどしい日本語で積極的に自作の魅力をプレゼンしてくる(若干引くほどに)。どうも海外では作家がプレゼン能力を磨くのは当たり前のことで、寡黙にしているのが美徳だ、みたいな価値観はないのではないかと感じる。単純に物を売るという仕事として考えると、商品を客にアピールしないセールスマンなど職務怠慢以外の何物でもない。

 

しかし一方で、海外のギャラリーでは、展示期間中に作家が在廊しようとすると、「作品を売るのに邪魔だから来るな」と言われるという話を聞いたこともある。この場合は、売るためのプロがいるので、それに任せるべきだと考えれば筋が通るのか。どちらにしても、ただ見てもらえば分かってくれるはず、という考えではないようだ。

 

前回のところから話が混濁してきたので整理すると、自分は作家には一定の言語化能力が必要だと考えている。しかしそれは、あくまで作品をより良いものにするためであって、別にプレゼンのためではない。むしろ客として作品を鑑賞する際には、過度なプレゼンは邪魔だと感じる方だ。ちょっとした作品の背景を話してくれるぐらいならいいが、制作意図を明け透けに話されたりすると、そこで脳内に「−完−」の文字が浮かび、その作品への興味が終了する。

 

鑑賞者に自分で考えさせてくれない作家は面白くない。もちろん、それは自分がそういったことを考える作業が好きだからやめてほしいというだけで、いくら言葉を尽くしても完全な説明というものがありえない以上、その作品によって伝わるものがプレゼンでひとつ残らず伝わったということにはならないだろうが。

 

作家が言語化能力を高め、自作についての解説をするとなると、そこで持ち上がってくるのが、作品の見方に一定範囲内の「正解」を設定すべきか否かという問題である。例えば、明らかな政治的主張を含んだ映画を観た人が、その文脈を全く理解できずに、「映像が綺麗で感動した」だけで終わったとしたら、それをどう捉えればよいのか。

 

もちろん制作者側にとっては、それは失敗であって、「人それぞれの見方があっていい」というような、投げやりな考え方で済ませるべきではない問題である。もし映画を観終わった後に観客がどう思うかまでが完全に固定されているような作品があるとすれば、それはもはや表現ではなく洗脳である。明確に伝えたいメッセージがある作品だとしても、ほとんどの場合は観客が最後にどう思うかという部分での自由な分岐を許容しているはずである。しかし、いま挙げたような例だと、制作者が「最低限ここまでは来て欲しい」と設定したレールからも大きく外れてしまっているのであって、これを是としてしまうのはどうかという気がしなくもない。

 

現実問題として、現代アートには、必要な文脈を踏まえた上で鑑賞しないと、作者が最低限設定した地点にすら辿り着けないものが非常に多く、鑑賞者のほとんどがそこまで辿り着けなかったり、逆に説明過多になって鑑賞者を辟易させたりしている。

 

個人的には、現代アートはそういう文脈のルールありきのゲームで、それまでのアートとは似て非なる別の競技みたいなものだと捉えている。現代アートの世界では「感じたままに見る」という文脈を無視した見方は何かと否定されがちだが、鑑賞者側の姿勢としては、その競技に参加したい人は文脈を勉強すればいいし、「感じたままに見る」という見方にこだわる人は、元々その競技に参加する気がないのだとしか言えない。

 

何となくアートという言葉で一括りにされているが、現代アートとそれまでのアートの見方を「走る」という行為に例えるなら、やっていることは短距離走とマラソンぐらい違うのであって、鍛えなければならない筋肉が速筋と遅筋で違っているのと同じことなのではないかと思う。正直に言って、現代アートに関しては、自分にははっきりこうだと言える回答があまりないのでこのへんにしておく。

 

言語化を放棄している人にしろ、評論家にしろ、実はどちらも芸術を「説明できないものであってほしい」と思っているのではないかというのが自分の考えである。自分はどちらかというと後者に近い考えの人間だと思うが、自分の言語化能力を総動員しても説明できないような感動を与えてくれる作品に出会いたいと思っているし、そういう作品に自分の言語化能力が敗北するとき、不思議と充足感を覚える。これは自分の持っている金庫を、どうせ壊せないので触らないでおくか、壊せないことを確かめるために叩いてみるかの違いでしかないのではないか。どちらにしても、自分は金庫の中身には大して興味はない。