間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

ありふれた唯一無二

川で拾ってきた石を眺めていると、そこらに落ちている石ころですらこんなに良い姿をしているのに、俺ごときが絵なんか描く必要があるのだろうかと考えてしまう。俺はただ余計なものを生み出しているだけなのではないか。


陶器や石や壁や古道具など、時を経た素材の質感に惹かれるようになってから、ものを見る目が変わった。外を歩いていれば、自然の作用によって生まれたそのような物体がいくらでも見つかる。今の俺の目線からすると、美術館やギャラリーなんかに行くまでもなく、道端には面白いものがありふれている。しかし、そのような感性を持ってしまった以上、さて自分が何か作ろうと思っても、もはやこれ以上自分にはやるべきことがないような気がしてくる。

 

例えば、マチエール表現を目的とした、いわゆる「絵の具塗りたくり系」の抽象画なんかは、言ってしまえば道に落ちている石ころと同じである。同じようなものはどこにでもあるが、全く同じものはどこにもない。このような「ありふれた唯一無二」を自分の表現としてしまうと、それはもうそこで行き止まりで、あとはただ偶然を繰り返し生み出すだけの作業になってしまう。その作業を芸術家の仕事と呼んでいいのだろうか。いくら石や壁が好きでも、ただそれをキャンバスの上に再現するだけというのは芸術ではないのではないか。既に自然が完全な形でやっていることを、なぜこの上不完全な形で人間がやる必要があるというのか。

 

これが陶器なら何の問題もない。器の表面に好きな石や壁の質感を再現して、それだけがその陶芸家の仕事だとしても、器には用途があるので、それは装飾として存在意義があるからだ。実用性のあるものには芸術などという理論武装はそもそも必要ないのだ。

 

うちの母がやっている押し花アートなんかは、野に咲いている花を摘んできて押し潰し、それを並べて花畑の絵にするという恐ろしく不毛なことをやっていた。花は自然に生えている状態が一番良いに決まっているのに、人間は自分達の感性に合わせて生け花にしたりガーデニングしたりする。

 

しかしここで、「自然が最高の芸術だ」という結論にしてしまうのは安直な気がする。人間の作り出すものと比べればそうなるに決まっているからだ。道に落ちている石ころ1つだって俺には作り出せない。しかし、芸術というものはそもそも人間が生み出した概念であり、自然はその枠の外にあるものである。枠の外にあるものを枠の中の価値観に嵌め込もうとするのが無理な話なのだ。人間は人間の枠内で芸術だの何だの言っていればいいのであって、その枠の中に自然を無理矢理持ち込んで「自然が最高」なんて言うのは、ボクシングの試合でピストルを使って勝ったと言っているようなものだ。

 

人間は自然を前にして、一体どういう芸術を生み出せるのか。自然はあくまでも学ぶべき手本であって、それそのものは芸術の範疇にはない。自然のものを見て美しいと感じる人間の感性こそが芸術なのだ。

 

先ほど「ありふれた唯一無二」と書いたが、いくら素晴らしい石や壁の再現物が作れても、やはり俺はありふれていることが嫌なのだろう。それは人間のみみっちいエゴだが、芸術が人間が作り出したものである以上、エゴが混ざるのは当たり前で、誰のものでもない芸術がいいのなら、それは自然だけで事足りる。純朴な風景画にしても、それをキャンバス上に描き留めたいというのが既に人間のエゴだし、優れた芸術として後世に残っているようなものは、例えばゴッホの風景画のように、作者の人格や価値観が多分に絵の中に混入されている。それを芸術として見るとき、我々は描かれた元の自然そのものではなく、その自然を見た画家の感性に触れて感動しているのである。