間違い電話の向こう側

芸術関係のこととかを書き殴るブログ

ギャラリーに対して思うこと

自分は大阪に住んでいて、よく近県のギャラリーを見て回っているのだが、いつも思うことがある。それは、ウェブサイトがあまりにもいい加減な店が実に多いということである。

 

デザインがださかったり見づらかったりするところもあれば、全然更新していなくて営業しているのかいないのかすら判然としないようなところもある。というか、そもそもウェブサイトがない店も結構ある(「このご時世に・・・」とは思うものの、これはネットから来るような一見客をはなから相手にしていない店であることもあるので、一概にいい加減な店とまでは言えないが)。

 

サイトの情報がいい加減という部分については、展示の情報を載せるのが遅い店が実に多い。酷いところだと会期の終わり頃になってから情報を載せたり、最後まで全く載せなかったりする。しかもこれが貸しギャラリーだったりするので、展示している人は文句言わないのだろうかと思う。展示をする側としても、見に行く客側としても、1ヶ月前ぐらいには告知してほしい。

 

あと、たまにあるのが画像が1枚もなく、テキストだけの告知。これは場合にもよるが、知らない作家の展示だったら画像がなければ何も分からないので、興味の持ちようがない。こんなんで見に行く奴いねえだろと言いたくなる。誰だか知りもしない作家の名前を律儀に検索する人などほんの一部だろうし、せめてDMの画像ぐらいは載せてほしい。

 

最近はTwitterFacebookを利用している店も非常に多い。これはきちんと更新されていれば情報収集に便利な一方、複数利用しているうちの特定のSNSのみ頻繁に更新したり放置したり、そのせいでサイトの方が廃墟化していたり、情報が統一できていない店が目に付く。やるならちゃんとやってほしいし、SNSを始めたせいでサイトを放置するぐらいなら紛らわしいので最初から作らない方がいいのではないかと思う。ギャラリーのスケジュールが埋まらなくて更新する情報が何もないとかなら仕方ないが、普通に営業しているのにサイトを放置する神経が分からない。

 

個人的にはSNSでの情報はすぐに流れてしまうし、ノイズが多いのであまり使いたくない。SNSで適当に流し見するぶんには、店が発信する情報を多方面からかき集めるよりも、ギャラリー巡りをしている人がレポートして情報を流してくれているので、そういった人のTwitterでも見ている方がまだマシだったりする。

 

自分がよく見ている陶器のウェブショップだと、入荷情報をメールマガジンで知らせてくれるところが多く、ギャラリーもメルマガにすればいいのにと思う。DMは大量に送ると送料が馬鹿にならないし、SNSは確実に見てくれるか分からないのだから、芳名録には住所ではなくメールアドレスを書いてもらった方がいいような気がする。しかしギャラリーに来る客にもオーナーにも年配の人が多いので、そういうことをやろうとする人があまりいないのだろう。

 

最後に、サイトのデザインがださい店についてだが、これは美術品を取り扱う店のくせにデザインがださいという時点で何か危うげなものを感じてしまう。あまりに古くさいデザインだと行く気が失せる。まあそういう店は金を持っている年配の客しか相手にしておらず、滅多に絵を買いもしない一見客なんかどうでもいいと思っているのだろう。ギャラリーも商売である以上、そういう姿勢も否定はできないので、それについてはこれ以上何も言うことはない。

同じようなものばかり見せられる

ここ数年で、インターネットで見ているページが著しく偏ってきているのを感じる。それが自分の嗜好の問題ではなく、検索エンジンにあるような気がしてならない。

 

ネットを使うには、ほぼ100%検索エンジンを介することになるわけだが、その検索エンジンもまたほぼ100%がGoogleなのであって、それ以外のところからネットの世界を覗くことは滅多にない。Google以外の検索エンジンというと、日本ではYahooが大手だが、Yahooの検索エンジンGoogle検索エンジンを流用しているらしいので同じことである。それ以外だとBaiduやBingなどがあるものの、これらを使っている人はほんの僅かな数でしかない。

 

で、冒頭に述べた検索結果の偏りがGoogleにはある。これはGoogleの検索システムのせいでもあるが、それに合わせて、検索結果の上位に表示されるように様々なサイトが対策をするようになったことが大きい。このようなSEO対策が当たり前になった結果、Googleでは何を検索してもTwitterFacebook、Yahoo知恵袋、食べログNaverまとめ、2chまとめなどの有名なサイトばかりが表示されるようになった。実際、普通に検索してもこんな誰も見ていないようなブログに辿り着く人はほぼいない。

 

テレビがメディアとして衰退し、みんなが同じものを見ている時代が終わったという話はよく聞くが、実はネットの時代になっても検索エンジンがこんな有様なので、結局はみんな同じようなものしか見ていないのではないかということを最近よく思う。「昔のインターネットはよかった」などという話をする気はないが、このような現状にうんざりしていることはどうしようもない事実である。なんだか最近、何を検索しても同じような情報しか出てこなくなったのだ。

 

「みんなと同じものばかり見る」ことの何が悪いのかといえば、つまるところ「馬鹿になるから」である。他の言い方をするなら、「思考の多様性が失われるから」と言ってもいい。みんなが同じようなものばかり見て暮らしている社会は、マイノリティの意見が圧殺される息苦しい社会でもある。こういう風潮が加速していくと、戦中の日本みたいな最悪な同調圧力社会になってしまいそうで虫酸が走る。

 

ありきたりな結論になるが、こういったネットメディアの偏りから脱するためには、やはり本を読むしかないと思う。本屋や図書館も在庫が有限である以上、得られる情報に何らかの偏りはあるのだろうが、Google検索で上位に上がってくるようなサイトは、上位に表示させるための対策だけが歪に洗練されていて、中身は無内容なものが多いので、偏り以前の問題である。

 

本はたとえ大型書店で平積みされているベストセラー本を読むのだとしても、読み終えるまでに大体何時間かは集中して読まなければならない。それに対し、漫然とネットをしている時間というのは、何十件も表示されるページを次から次へと渡り歩くので、むしろ集中力は散漫になる。

 

当たり前だが、何事も本腰を入れてやろうと思えば長い時間がかかるのであって、目に前にあるものを取っ替え引っ替えつまみ食いするようなことばかりしていても何も身につかない。実際、漫然とネットを閲覧していても、雑学的な知識はいくらでも増えるのに、それらを体系化したり結びつけて考える力はほとんど養われない。見たページの内容は右から左へ流すように忘れていくのだから当然の話である。立ち止まる時間がなければ自分の思考というのは育たないのだ。

 

自分は最近、ネットで見なくてもいいような情報をだらだらと見てしまう癖がついてしまって、本当に頭の回転が悪くなったと感じる。こういう情報過多の時代には、情報を探す技術よりも、情報を遮断する技術の方が重要だ。などと言い出すと、こんな下らないブログなんか遮断すべき情報の最たるものだろうが、まあ誰も読んでいないので大丈夫だろう。

パーティーという空間

先日、参加しているグループ展のオープニングパーティーがあったので行ってきたのだが、やっぱり自分はこういうパーティーみたいな空間が好きになれんと思った。何かの展示があるたびに、いつも感じることである。もともと人と関わるのがあまり得意でないから1人で陰気に絵を描いているのに、なぜみんなパーティーなんかをやりたがるのかよく分からない。こんなところでまでコミュニケーション能力が要求されるのかと思うと嫌になる。

 

そういえば、災害時などに見ず知らずの人たちと協力し合わなければならない状況になったとき、一番最後まで独りでもじもじしているのはおっさんであると何かで読んだ記憶がある。おばさんなんかは平時でも道端で会った人と何時間も話し込んだりするぐらいなのでコミュ力は高いし、若い人は若い人同士で固まるので次第に関係が作られていく。それに比べておっさんだけは仕事以外で人と全く関わっていない人が多く、しかも無意味なプライドを持っていたりするので、自分から他人に話しかけようとせず、最後まで孤立しているのだという。

 

いい歳こいて人見知りなんて言っているのもみっともないので、自分もパーティーではそこらへんにいる人と当たり障りのない話をしてお茶を濁している。が、それでどうなるのかと言えば、どうもならない。パーティーで会う人というのは、すぐに名前も忘れてしまって二度と会わないことが大半なので、もう話す前の段階から徒労感に襲われてしまう。コミュ力のある人ならこういう場で水を得た魚のように動いて人脈を作るのかもしれないが、酒も飲めない自分には居心地の悪いことこの上ない。

 

別に人と話すのが嫌いなわけではない。普段からこのブログにあるような雑念を弄んでいる人間なので、少人数で込み入った話をしたりするのはむしろ好きな方だ。ただ、そういった本腰を入れてする会話と、パーティーなんかで取っ替え引っ替え行われる会話は別物なのである。

 

会話に参加する人数が増えれば増えるほど、そこで扱われる話題は最大公約数的なものになりがちで、よく知らない人たちとの飲み会では、大抵「どこの出身ですか」みたいなところから始まって、「◯◯県といえば△△がおいしいですよねー」みたいな話をすることが大変多い。こういう中身のない会話をしながら、その実、お互い「死ぬほどつまんねえわ」と思っているのではないかという気がしてならない(少なくとも自分は思っている)。相手が気の合う人なら、その後、もっと深い話にまで発展させられるかもしれないが、合わない人が相手だと、延々とこの中身のない会話を上滑りさせていくだけとなり、あほみたいに疲れる。相手にも疲れされて申し訳ないと思う。

 

最初に述べたとおり、そもそも作家の展示会場でパーティーなんかやる意味がよく分からない。みんな絵なんかろくに見ないで酒飲んで騒いでるだけじゃねえかと思うし、大して儲かってもいないくせに持ち出しでパーティーを開いて、絵を買ってくれもしない人に毎回お礼状を出して、いまどき高級百貨店でもそこまでしないだろうに、いつまでバブリーな慣習を引きずっているのか。シンプルに絵を見てもらえればそれでいいじゃないか。酒も食べ物も喧騒も、作品鑑賞の邪魔にしか思えない自分には居場所がない。

 

こんなにぶつくさ言うのなら、そもそもパーティーなんか行かなきゃいいじゃんというのは尤もなのだが、まだどこかで「何かあるかも」と卑しい期待をしてしまう自分がいる。輪の中に入っていくこともできず、かといって孤高を貫くこともできず、いつまでも中途半端で一番損な位置に立ったまま動けない。

 

「自分のなかの泉の水も飲めずに ひとがお菓子を食べるとこばかり見ている」

山本精一「赤ん坊の眼」)

できることをやるだけ

ぼんやりと「去年はマジで糞だったなあ」と思いながらネットをしていたら、そのような状況を「大殺界」とか言って昔テレビに出ていた占い師のおばはんのことを思い出した。血迷って調べてみたところ、自分は一昨年からもろにその大殺界とかいう時期に突入していることになっていた。しかもこの大殺界は3年続くそうなので、占いによると今年も糞らしい。ふざけるな。


自分は占いなどというものは全く信じない人間だが、こんなものを見てしまうということは、よほど精神が腐っているのだろう。普通は1年を通してまるっきり悪いことだらけの年もないだろうし、良いことだらけの年もないはずで、思い出してみればどちらの出来事もあって当たり前なのである。当てはめようと思えばどうにでもなるのだ。占いは未来を見るものだが、過去を振り返って答え合わせをしてみると、ぼんやりと当たっているような当たっていないようなことしか言っていない場合がほとんどである。


ということを前提とした上で言わせてもらうが、マジで去年は糞だった。もちろん良いことも少しはあったが、トータルで見ると相当負けが込んでいる。ほとんど9:1ぐらいじゃないかと思うほど糞な出来事だらけだった。ひとつひとつ挙げるのももはや煩わしい。


こんな糞な年が今年も続くのかと思うと本当にどす黒い気分になってくるが、大殺界は一昨年から始まっていたというのに反して、一昨年はかなり幸せな方だった。というか、人生で一番幸せと言っていいぐらいの年だったので、一昨年に関して言えば全然当たっていない。今年も外れてくれと思うが、そもそも占いなどというものは根本の発想が他力本願なのであって、自分から動かなければ良いことがないのは当たり前なのである。こんな下らないものを気にするよりは、失敗しても何かをやり続けた方がよっぽど実りがあるだろう。年明けから愚痴で始めてしまったが、腐らずマイペースにできることをやっていきたい。

無用の美

銅版画をやったり陶器を集めたり、自分の興味が科学技術の進歩とは正反対の方向へどんどん向かっているのを実感する。例えば、お茶を飲むコップにしても、今は真空断熱構造のコップが1000円ぐらいで売られていて、そのコップだと中の氷が丸1日溶けずに浮いていたり、熱いお茶も全然冷めなかったりするそうである。金属製なので当然割れることもない。

 

それに比べて自分が集めている陶器のコップは、保温性は低いし、すぐ汚れが染み込んだりするし、落とせば簡単に割れてしまう。利便性で言えば、もっと優れた商品がいくらでもある。ただの容器として見ても、100均のプラスチックのコップの方が軽くて割れないという利点で優る。

 

にもかかわらず、自分は真空断熱のコップもプラスチックのコップも全然欲しくない。好きな作家の陶器は熱烈に欲しい。それは単純に物体としてその器を素晴らしいと思うからで、それがどう役立つかとか、値段がどうかという点はわりとどうでもいいのである。単なる家電や機械には、そういった物体としての素晴らしさを感じるものがほとんどない。もちろん、それらの製品の利便性を否定する気はないし、自分自身その恩恵に与っているが、自分にとってそれらの製品は、ただの道具に過ぎず、思い入れも愛着もないのである。便利なものを使いたいと思うのは誰でも当たり前のことで、現代の暮らしは普通に生活していても、何もかもが効率や利便性優先になりがちである。それは便利であると同時に、息苦しさやせせこましさも付きまとう。

 

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別に時代の進歩に意図的に逆らおうというつもりはないが、せめて趣味の範囲内ででも、その現代的な価値観から少し離れ、役に立たないものや無駄とも思えるようなものを身の回りに置いておきたいという気持ちがどこかにある。何もかもが効率主義に傾いていく有様は、人間が機械に接近しているのだとも言える。それに対して、無駄なものの存在を許容することは、むしろ人間的である。

 

こういった考え方は、どちらかというと、民芸運動のいわゆる「用の美」などとは反するものだ。自分としては「用の美」の思想は、提唱された当時は理があったのだろうと思うが、現代においては既に形骸化しているとしか思えない。先ほど述べたとおり、使いやすさの中に本当の美が宿るのであれば、現代において最も美しいのは100均の商品ということになる。しかしそんなことを言っている人は見たことがない。やはり美という概念は、単なる効率主義とは違うのだ。

 

「用の美」を提唱して売られている民芸の器なんかも、実用実用と言うわりには懐古趣味の領域から進歩していないし、値段も当たり前のように高い。そもそも、現代においては、手作りの品を買うという行為そのものが贅沢なのであって、アーティスティックな現代陶芸だろうが民芸だろうが、大差はないのである。

 

自分にとってはどちらも人間の変なこだわりがあって好ましく思えるので、別に現代陶芸だからとか民芸だからとかで区別するつもりはない。良いと思うものを買うだけのことである。