間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

情報過多

もうこの件に関して書くのも何度目か分からないほどだが、相変わらずツイッターを使うたびにネガティブな感情ばかり増幅させられて本当に辟易する。

 

ドイツで600人を対象に行われた調査によると、SNSにログインした後に「ログインする前より気分が悪くなった」と答えた人が3分の2もいたらしく、これはもはや多くの現代人が薄々感じている共通の不快感なのだということが分かってちょっと驚いた。今まで俺個人の性格の問題か、もしくはそんなことを感じているのは陰湿な日本人だけだろうと思っていた。他にも「SNSを使っている人は使わない人に比べて鬱病になるリスクが2.7倍になる」とか「SNSを使う時間が多くなるほど幸福度が低下する」などといったネガティブな研究結果が山ほど出ていて、なぜ未だにこんなものが良いもののように持て囃されているのか理解に苦しむ。

 

前から何度も書いているが、インターネット(特にSNS)には、知らない方が幸せに過ごせる情報が多すぎるのだ。誰か1人が自分の生活を良く見せようとして、SNSで「幸せアピール」をすると、それを見た数十人数百人の人間の内に、ちょっとした嫉妬心や自己嫌悪が生まれる。しかも「幸せアピール」をしている本人も無理をして背伸びした内容を投稿していることが多々あるので、全体として見ると誰も幸せになっていない場合すらあり得るのである。こういう状態を見ると、俺はSNSが生み出した幸福と不幸の総量は一体どちらが多いのだろうか、などという不毛なことを考えてしまう。

 

インターネットは人類に計り知れないほどの有益な情報をもたらしたが、その代償として、知らない方が幸せな情報も一緒に押し付けてきた。これはもう「見なけりゃいいじゃん」で済ませられるようなものではなくなっている。俺はLINEをやるのが面倒で未だに使っていないが、著しく交友関係の狭い俺ですらLINEをやっていないことで他人から何度も不便だと文句を言われるほどなので、インターネットを根幹とする技術を一切使わずに現代社会に生きるなどということは、不可能だとは言わないまでも、大きな足枷を付けられるようなものだろう。それこそ田舎に引き篭もって自給自足の生活をするぐらいしか途はない。

 

俺は別にインターネット自体を丸ごと否定する気まではない。こういうネガティブな感情が出てきたのは、明らかにSNSが台頭してきてからである。個人サイトからブログ、SNSと流れていくにつれて、個人が情報を発信するハードルがどんどん下がり、ネット上にどうでもいい個人の情報が爆発的に増えた。これはみんなが情報の発信者になったのと同時に、その情報を受信させられる側にもなったということである。

 

本来、人間というのはもっと利己的で自分にしか興味がないのが当たり前だったのに、自分に興味を持ってもらいたいがために、お付き合いで他人への興味を示さなければならなくなったのである。猿の群れでも、生きていくためには他の猿とのコミュニケーションは必須だろうが、それはせいぜい数十匹程度の猿の中で済んでいたのが、ネット上では何百何千という他人の情報が無限に舞い込んで来るのだから、まともに応じていたら気が変になって当然である。

 

SNSで気が変になっている俺みたいな人間は、こんなブログさっさと閉鎖して、ネット上の虚像でない現実の自分にもっと興味を持つべきなのだろう。大体、世間で成功している人間なんて、大抵は自分にしか興味がないエゴイスティックな性格をしているものだ。エゴイズムというと、出る杭を血眼で打ちまくるこの国では罪悪のように言われるが、SNSで行われているような気持ちの悪い人間関係に比べればまだ健全な生き方だ。不毛な「いいね!」稼ぎなんかやめて、いい加減に実体のある生き方を考えなければ本当に鬱病になる。

ありふれた唯一無二

川で拾ってきた石を眺めていると、そこらに落ちている石ころですらこんなに良い姿をしているのに、俺ごときが絵なんか描く必要があるのだろうかと考えてしまう。俺はただ余計なものを生み出しているだけなのではないか。


陶器や石や壁や古道具など、時を経た素材の質感に惹かれるようになってから、ものを見る目が変わった。外を歩いていれば、自然の作用によって生まれたそのような物体がいくらでも見つかる。今の俺の目線からすると、美術館やギャラリーなんかに行くまでもなく、道端には面白いものがありふれている。しかし、そのような感性を持ってしまった以上、さて自分が何か作ろうと思っても、もはやこれ以上自分にはやるべきことがないような気がしてくる。

 

例えば、マチエール表現を目的とした、いわゆる「絵の具塗りたくり系」の抽象画なんかは、言ってしまえば道に落ちている石ころと同じである。同じようなものはどこにでもあるが、全く同じものはどこにもない。このような「ありふれた唯一無二」を自分の表現としてしまうと、それはもうそこで行き止まりで、あとはただ偶然を繰り返し生み出すだけの作業になってしまう。その作業を芸術家の仕事と呼んでいいのだろうか。いくら石や壁が好きでも、ただそれをキャンバスの上に再現するだけというのは芸術ではないのではないか。既に自然が完全な形でやっていることを、なぜこの上不完全な形で人間がやる必要があるというのか。

 

これが陶器なら何の問題もない。器の表面に好きな石や壁の質感を再現して、それだけがその陶芸家の仕事だとしても、器には用途があるので、それは装飾として存在意義があるからだ。実用性のあるものには芸術などという理論武装はそもそも必要ないのだ。

 

うちの母がやっている押し花アートなんかは、野に咲いている花を摘んできて押し潰し、それを並べて花畑の絵にするという恐ろしく不毛なことをやっていた。花は自然に生えている状態が一番良いに決まっているのに、人間は自分達の感性に合わせて生け花にしたりガーデニングしたりする。

 

しかしここで、「自然が最高の芸術だ」という結論にしてしまうのは安直な気がする。人間の作り出すものと比べればそうなるに決まっているからだ。道に落ちている石ころ1つだって俺には作り出せない。しかし、芸術というものはそもそも人間が生み出した概念であり、自然はその枠の外にあるものである。枠の外にあるものを枠の中の価値観に嵌め込もうとするのが無理な話なのだ。人間は人間の枠内で芸術だの何だの言っていればいいのであって、その枠の中に自然を無理矢理持ち込んで「自然が最高」なんて言うのは、ボクシングの試合でピストルを使って勝ったと言っているようなものだ。

 

人間は自然を前にして、一体どういう芸術を生み出せるのか。自然はあくまでも学ぶべき手本であって、それそのものは芸術の範疇にはない。自然のものを見て美しいと感じる人間の感性こそが芸術なのだ。

 

先ほど「ありふれた唯一無二」と書いたが、いくら素晴らしい石や壁の再現物が作れても、やはり俺はありふれていることが嫌なのだろう。それは人間のみみっちいエゴだが、芸術が人間が作り出したものである以上、エゴが混ざるのは当たり前で、誰のものでもない芸術がいいのなら、それは自然だけで事足りる。純朴な風景画にしても、それをキャンバス上に描き留めたいというのが既に人間のエゴだし、優れた芸術として後世に残っているようなものは、例えばゴッホの風景画のように、作者の人格や価値観が多分に絵の中に混入されている。それを芸術として見るとき、我々は描かれた元の自然そのものではなく、その自然を見た画家の感性に触れて感動しているのである。

古物(2)

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ステンレス製のスキットル?か何か。同じタイプのものをヤフオクでよく売ってるので、そんなに珍しいものではないと思われる。上部にロゴがあって「TRADE MARK KAISHUDO」と刻印してあるのだが、ロゴ自体はなぜか「B」の一文字。「B」どこにも入ってないやん。

 

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木製のチョーク入れ。よく見るとうっすらと「津田」と書かれているので津田先生のです。買ったら中にチョーク自体も入っていた。自分が学生だった頃は、先生はチョーク入れなんか持ってなくて、チョークは黒板に付いてる受け皿に置きっぱなしだった。昔はチョークが貴重だったから先生が保管してたとかそんな事情でもあったのだろうか。今はもう使わない道具だろうなと思って調べたらまだ売ってる模様。チョークって先生の私物なのか?

 

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銅製のケース。何を入れるためのものなのか不明だが、ハガキがぴったり入るサイズ。蓋を開閉してみると、がっしりしていて丁寧に作られているのが分かる。錆びとも相まってこの重厚感。銅版画をやっていると腐食したときに、版がたまたまこういう良い錆び方になって、「もうこれでいいじゃん(刷らなくて)」と思ったりする。そういう好ましさが立体化したような品で、思わず欲しくなって買った。

古物(1)

何年か前から骨董品を見るのが好きになって、いつのまにか物が増えてきた。あまり人に見せる機会がないのでブログのネタに自慢でもすることにした。骨董市に行くのも石を拾いに行くのも、宝探しをしているような感覚が好きでやっている。最近では他の何をやっている時間より一番楽しい。

 

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 古い印材。彫って印鑑にするための石。いい感じに古びていたので彫る気ないのに骨董市で購入。4cm四方ぐらいでずっしり重い。印鑑によく使われるという凍石という種類の石に似ている気がするが詳細不明。古い印材は削って再利用されることもあるらしい。ヤフオクを見ていると古い印材がけっこう出ていて集めたくなる。

 

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 こっちも印材。素材は真鍮。同じ骨董市で購入。金属は石よりかなり彫りにくそうだが、このまま彫刻刀で彫るんだろうか。なんかこういう金属の塊っぽい物体にはいつも惹かれる。特に真鍮は古くなるといかにも骨董って感じの質感になるので好きな金属。

 

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 ということで真鍮つながりで計量カップ。大きさは4cmぐらいしかないが、厚みがあってずっしり重い。6分の1GILLと書いてある。1GILLはだいたい120mlぐらいらしいので、このカップは20ml用ということになる。こんな小さいカップじゃ料理用には不便そうな気もする。コニャックみたいなきっつい酒とか量る用だったんじゃないかと思うが知らん。

AVとかライトノベルみたいにくそ長いタイトルの作品が増えすぎて週刊誌の表紙みたいで下品だというぼやき

AVとかライトノベルのくそ長いタイトルを見ていると、「タイトル」ってそもそも何だったっけ?という気になってくる。もうタイトルというより設定を全部言葉で説明してるだけじゃないか。長い内容を象徴する一言を短くバシッとつけるからタイトルってかっこいいんじゃないのか。そもそも表現において「説明する」という行為は無粋の極みであって、例えば、読者への露骨な説明台詞を登場人物が長々と話し出すと「こいつ誰に向かって喋ってるんだ」と冷めてくる感覚は誰にでもわかると思う。

 

洋画の国内用ポスターなんかでもそうだが、なんでもかんでも売るために、客に対して手取り足取り親切に親切にしていった結果、なんか週刊誌の表紙みたいな下品なものばかりになってないか。大体こういうのは作者ではなく、編集者とかプロデューサーみたいな人が付けているパターンが多い。作品に対して愛着がなく、売れさえすれば内容なんかどうでもいいとでも思っていなければ、こんなダサいタイトルのつけ方なんかしないだろう。


まあさすがに俺もAVやラノベにまで品性を求める気はないのだが、こういう余計な親切さに気を回すぐらいなら、もう少し内容に気を遣ってほしい。あ、内容に気を遣っても売れないからこんなことしてんのか。でもそういう客と市場の状況を生んでるのは、客の知性を全く信頼していない制作者自身なので、結局同じことだ。