間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

空白を埋める

退屈して近所を散歩しに出かけて、また壁の写真なんかを撮りながら歩いた。今の家に住み始めてもう丸10年になるのに、未だに近所にも行ったことのない場所がちらほらある。今はまだギャラリー巡りをするようになったおかげで、大阪の地理もけっこう把握しているが、10代の頃に桜ノ宮に住んでいたときは、ほとんど外を出歩くことがなかったので、あの辺りの地理は未だに頭に入っていない。というか、大阪の地理が頭に入ってきたのは、ほんのここ3〜4年のことで、それ以前は目的地に行って帰るだけの繰り返ししかしていなかったため、場所が点でしか記憶されず、一向に地図上に線や面が形成されなかった。

 

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自宅付近で撮影


少し話が変わるが、以前、わりと大きめの公共施設でグループ展に出品した際、監視員をした。しかし客は全然入らないし、もともと仕事なんか無いに等しいので、暇つぶしにその建物の見取り図を書いた。これが意外に楽しかった。もう二度と行く予定のない建物だし、自分がどういう場所にいたのかという記録になる。場所の記憶はあっても、記録はなかなかない。もちろん、専門的な知識なんかないので、大雑把に書いただけだが、だいぶ気が紛れた。


家に帰った後、その延長として、記憶を頼りに実家の周りの地図を書いてみた。家をスタート地点として、そこから徐々に範囲を拡大させていくと、必ずどこかで途切れる。あるいは空白地帯が生まれる。長年住んでいた土地なのに、そこに何があったのか分らないというのは妙に新鮮な感覚で、ちょっと出かけて確かめてみたくなる。まあ、行ってみても実際には大したものなどない場合がほとんどなのだろうが、人間の空間認識能力の程度が知れるので面白い。


いくら移動手段が発達して遠くまでいけるようになっても、それは空間を点で把握しているに過ぎず、線では繋がっていない。飛行機や新幹線クラスの速い乗り物になってくると、ほとんどワープ装置も同然で、本当は自分の住んでいる県の隣にニューヨークがあって、ちょっとしか移動していなかったのだとしても、それを自分の目と足で確かめるのは難しい。移動の速度が早くなればなるほど、距離感の把握が困難になるということだろう。


自分も地元と大阪を新幹線で何度も往復しているが、当然これも歩いて距離感を確かめたわけではないので、離れた点と点としてしか感じられず、一方にいる間は、他方がバーチャルなものだったかのように現実感を失う。大阪にいる間は、地元の友人は幽霊かなにかのようにしか思えないし、地元にいるとこれが逆転する。もし両者が同席するようなことがあったら、混乱してしまうような気がして仕方ない。

 

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自宅付近で撮影

話を戻すと、住宅地なんかは基本的には用がないので行ったことがなくて当然なのだが、住んでいる期間が長いほど、近所にすらそういう空白地帯があるということが不思議に思えてくる。写真を撮りながら散歩するのは、そういった普段用のない住宅地の地図を埋めることができるので、身近なようで結構得がたい体験である。まあ自分は方向音痴なので無目的に歩いているとすぐ場所が分からなくなってしまうのだが。