間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

同じようなものばかり見せられる

ここ数年で、インターネットで見ているページが著しく偏ってきているのを感じる。それが自分の嗜好の問題ではなく、検索エンジンにあるような気がしてならない。

 

ネットを使うには、ほぼ100%検索エンジンを介することになるわけだが、その検索エンジンもまたほぼ100%がGoogleなのであって、それ以外のところからネットの世界を覗くことは滅多にない。Google以外の検索エンジンというと、日本ではYahooが大手だが、Yahooの検索エンジンGoogle検索エンジンを流用しているらしいので同じことである。それ以外だとBaiduやBingなどがあるものの、これらを使っている人はほんの僅かな数でしかない。

 

で、冒頭に述べた検索結果の偏りがGoogleにはある。これはGoogleの検索システムのせいでもあるが、それに合わせて、検索結果の上位に表示されるように様々なサイトが対策をするようになったことが大きい。このようなSEO対策が当たり前になった結果、Googleでは何を検索してもTwitterFacebook、Yahoo知恵袋、食べログNaverまとめ、2chまとめなどの有名なサイトばかりが表示されるようになった。実際、普通に検索してもこんな誰も見ていないようなブログに辿り着く人はほぼいない。

 

テレビがメディアとして衰退し、みんなが同じものを見ている時代が終わったという話はよく聞くが、実はネットの時代になっても検索エンジンがこんな有様なので、結局はみんな同じようなものしか見ていないのではないかということを最近よく思う。「昔のインターネットはよかった」などという話をする気はないが、このような現状にうんざりしていることはどうしようもない事実である。なんだか最近、何を検索しても同じような情報しか出てこなくなったのだ。

 

「みんなと同じものばかり見る」ことの何が悪いのかといえば、つまるところ「馬鹿になるから」である。他の言い方をするなら、「思考の多様性が失われるから」と言ってもいい。みんなが同じようなものばかり見て暮らしている社会は、マイノリティの意見が圧殺される息苦しい社会でもある。こういう風潮が加速していくと、戦中の日本みたいな最悪な同調圧力社会になってしまいそうで虫酸が走る。

 

ありきたりな結論になるが、こういったネットメディアの偏りから脱するためには、やはり本を読むしかないと思う。本屋や図書館も在庫が有限である以上、得られる情報に何らかの偏りはあるのだろうが、Google検索で上位に上がってくるようなサイトは、上位に表示させるための対策だけが歪に洗練されていて、中身は無内容なものが多いので、偏り以前の問題である。

 

本はたとえ大型書店で平積みされているベストセラー本を読むのだとしても、読み終えるまでに大体何時間かは集中して読まなければならない。それに対し、漫然とネットをしている時間というのは、何十件も表示されるページを次から次へと渡り歩くので、むしろ集中力は散漫になる。

 

当たり前だが、何事も本腰を入れてやろうと思えば長い時間がかかるのであって、目に前にあるものを取っ替え引っ替えつまみ食いするようなことばかりしていても何も身につかない。実際、漫然とネットを閲覧していても、雑学的な知識はいくらでも増えるのに、それらを体系化したり結びつけて考える力はほとんど養われない。見たページの内容は右から左へ流すように忘れていくのだから当然の話である。立ち止まる時間がなければ自分の思考というのは育たないのだ。

 

自分は最近、ネットで見なくてもいいような情報をだらだらと見てしまう癖がついてしまって、本当に頭の回転が悪くなったと感じる。こういう情報過多の時代には、情報を探す技術よりも、情報を遮断する技術の方が重要だ。などと言い出すと、こんな下らないブログなんか遮断すべき情報の最たるものだろうが、まあ誰も読んでいないので大丈夫だろう。