間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

パーティーという空間

先日、参加しているグループ展のオープニングパーティーがあったので行ってきたのだが、やっぱり自分はこういうパーティーみたいな空間が好きになれんと思った。何かの展示があるたびに、いつも感じることである。もともと人と関わるのがあまり得意でないから1人で陰気に絵を描いているのに、なぜみんなパーティーなんかをやりたがるのかよく分からない。こんなところでまでコミュニケーション能力が要求されるのかと思うと嫌になる。

 

そういえば、災害時などに見ず知らずの人たちと協力し合わなければならない状況になったとき、一番最後まで独りでもじもじしているのはおっさんであると何かで読んだ記憶がある。おばさんなんかは平時でも道端で会った人と何時間も話し込んだりするぐらいなのでコミュ力は高いし、若い人は若い人同士で固まるので次第に関係が作られていく。それに比べておっさんだけは仕事以外で人と全く関わっていない人が多く、しかも無意味なプライドを持っていたりするので、自分から他人に話しかけようとせず、最後まで孤立しているのだという。

 

いい歳こいて人見知りなんて言っているのもみっともないので、自分もパーティーではそこらへんにいる人と当たり障りのない話をしてお茶を濁している。が、それでどうなるのかと言えば、どうもならない。パーティーで会う人というのは、すぐに名前も忘れてしまって二度と会わないことが大半なので、もう話す前の段階から徒労感に襲われてしまう。コミュ力のある人ならこういう場で水を得た魚のように動いて人脈を作るのかもしれないが、酒も飲めない自分には居心地の悪いことこの上ない。

 

別に人と話すのが嫌いなわけではない。普段からこのブログにあるような雑念を弄んでいる人間なので、少人数で込み入った話をしたりするのはむしろ好きな方だ。ただ、そういった本腰を入れてする会話と、パーティーなんかで取っ替え引っ替え行われる会話は別物なのである。

 

会話に参加する人数が増えれば増えるほど、そこで扱われる話題は最大公約数的なものになりがちで、よく知らない人たちとの飲み会では、大抵「どこの出身ですか」みたいなところから始まって、「◯◯県といえば△△がおいしいですよねー」みたいな話をすることが大変多い。こういう中身のない会話をしながら、その実、お互い「死ぬほどつまんねえわ」と思っているのではないかという気がしてならない(少なくとも自分は思っている)。相手が気の合う人なら、その後、もっと深い話にまで発展させられるかもしれないが、合わない人が相手だと、延々とこの中身のない会話を上滑りさせていくだけとなり、あほみたいに疲れる。相手にも疲れされて申し訳ないと思う。

 

最初に述べたとおり、そもそも作家の展示会場でパーティーなんかやる意味がよく分からない。みんな絵なんかろくに見ないで酒飲んで騒いでるだけじゃねえかと思うし、大して儲かってもいないくせに持ち出しでパーティーを開いて、絵を買ってくれもしない人に毎回お礼状を出して、いまどき高級百貨店でもそこまでしないだろうに、いつまでバブリーな慣習を引きずっているのか。シンプルに絵を見てもらえればそれでいいじゃないか。酒も食べ物も喧騒も、作品鑑賞の邪魔にしか思えない自分には居場所がない。

 

こんなにぶつくさ言うのなら、そもそもパーティーなんか行かなきゃいいじゃんというのは尤もなのだが、まだどこかで「何かあるかも」と卑しい期待をしてしまう自分がいる。輪の中に入っていくこともできず、かといって孤高を貫くこともできず、いつまでも中途半端で一番損な位置に立ったまま動けない。

 

「自分のなかの泉の水も飲めずに ひとがお菓子を食べるとこばかり見ている」

山本精一「赤ん坊の眼」)