間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

無用の美

銅版画をやったり陶器を集めたり、自分の興味が科学技術の進歩とは正反対の方向へどんどん向かっているのを実感する。例えば、お茶を飲むコップにしても、今は真空断熱構造のコップが1000円ぐらいで売られていて、そのコップだと中の氷が丸1日溶けずに浮いていたり、熱いお茶も全然冷めなかったりするそうである。金属製なので当然割れることもない。

 

それに比べて自分が集めている陶器のコップは、保温性は低いし、すぐ汚れが染み込んだりするし、落とせば簡単に割れてしまう。利便性で言えば、もっと優れた商品がいくらでもある。ただの容器として見ても、100均のプラスチックのコップの方が軽くて割れないという利点で優る。

 

にもかかわらず、自分は真空断熱のコップもプラスチックのコップも全然欲しくない。好きな作家の陶器は熱烈に欲しい。それは単純に物体としてその器を素晴らしいと思うからで、それがどう役立つかとか、値段がどうかという点はわりとどうでもいいのである。単なる家電や機械には、そういった物体としての素晴らしさを感じるものがほとんどない。もちろん、それらの製品の利便性を否定する気はないし、自分自身その恩恵に与っているが、自分にとってそれらの製品は、ただの道具に過ぎず、思い入れも愛着もないのである。便利なものを使いたいと思うのは誰でも当たり前のことで、現代の暮らしは普通に生活していても、何もかもが効率や利便性優先になりがちである。それは便利であると同時に、息苦しさやせせこましさも付きまとう。

 

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別に時代の進歩に意図的に逆らおうというつもりはないが、せめて趣味の範囲内ででも、その現代的な価値観から少し離れ、役に立たないものや無駄とも思えるようなものを身の回りに置いておきたいという気持ちがどこかにある。何もかもが効率主義に傾いていく有様は、人間が機械に接近しているのだとも言える。それに対して、無駄なものの存在を許容することは、むしろ人間的である。

 

こういった考え方は、どちらかというと、民芸運動のいわゆる「用の美」などとは反するものだ。自分としては「用の美」の思想は、提唱された当時は理があったのだろうと思うが、現代においては既に形骸化しているとしか思えない。先ほど述べたとおり、使いやすさの中に本当の美が宿るのであれば、現代において最も美しいのは100均の商品ということになる。しかしそんなことを言っている人は見たことがない。やはり美という概念は、単なる効率主義とは違うのだ。

 

「用の美」を提唱して売られている民芸の器なんかも、実用実用と言うわりには懐古趣味の領域から進歩していないし、値段も当たり前のように高い。そもそも、現代においては、手作りの品を買うという行為そのものが贅沢なのであって、アーティスティックな現代陶芸だろうが民芸だろうが、大差はないのである。

 

自分にとってはどちらも人間の変なこだわりがあって好ましく思えるので、別に現代陶芸だからとか民芸だからとかで区別するつもりはない。良いと思うものを買うだけのことである。