間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

壁を見る

少し前に杉浦貴美子という人の「壁の本」という本を買った。タイトルのとおり、壁の写真を集めた作品集で、ずっと前から欲しかった本である。絶版のようでなかなか手に入らなかったのだが、最近やっと購入することができた。

 

最近は描きたい絵が抽象画に接近していて、その嗜好性は素材の質感や経年劣化によるマチエールに向かっている(骨董品や陶器の収集もこれに関連している)。そのため、「壁の本」に収められている古い壁の写真にも強い興味があって、内容を見てみると、もうほとんどこれをこのまま絵にすればいいんじゃないかと思うぐらい素晴らしく感じた。帯文にも「街中に絵があふれている」とあって、著者もこれを絵画的な視点から見ている。

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自宅付近で撮影

自分もこういった自然に劣化したものの美しさを再現したいと思っていろいろとやってみてはいるのだが、人間が作為的に作ったものと、自然にそうなったものの間には、埋めがたい溝がある。限りなくそれに近づけることはできるだろうし、自然にできたものが何よりも優れていると言うつもりもないのだが、再現はどこまで行っても再現であり、オリジナルにはならないのである。

 

鉄扉の錆びひとつ取ってみても、表面の塗料が剥がれ、その部分が長い間風雨に曝されて、錆びが下に流れ、跡ができていくのであって、こういうものを絵画に取り入れ、効果として確立するのは難しい。なぜなら、こういった現象は、生み出す過程にあることではなく、壊れる過程にある現象だからである。これを再現しようと思えば、それは単に自然の作用をなぞる行為や、偶然を選び出す行為になり、一般的な意味での絵を描くという行為からは離れていく。写真に撮るだけなら、選び出すだけでも成り立つかもしれないが、絵を描く人間としては、絵描きの仕事がそこで終わってしまっていいのだろうかという躊躇いがある。また、このような自然物が土に還る過程を美意識をもって眺めるとき、表面的なことだけではなく、そこに流れた時間の集積を見ているのであって、即席で作られた再現物にはそういった重みがないように感じてしまう。これは先入観によるものだろうか。

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自宅付近で撮影

まあいろいろと思うことがあって、答えは出せていないのだが、写真を撮るのは絵のヒント探しにもなるので、自分でも壁の写真を撮ってみた。すると、思っていたより良い写真がたくさん撮れた。都合の良いことに、自分が住んでいるところからは、少し歩けば小汚い建物が密集している地区もあるので、こういう写真と撮るのには事欠かない。もう10年近く住んでいて、近所に撮るものなんかないと思っていたが、こうしてまた新しい視点から写真を撮るのはとても面白い。近所だけでなく、他の場所でもやってみようかと思う。