間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

思い出に苦しむひと 1

 過去の読書ノートより抜粋。

 


 

 ヘルマン・ヘッセの「クヌルプ」という小説を読んだら、自分が普段抱えている雑念と重なるテーマが取り扱われていて、随分と心を揺さぶられた。


 この小説の主人公クヌルプは、住所不定の放浪生活をしている人間で、各地を転々としながら芸人や職人の手伝いのようなことをして暮らしている。容姿にも人脈にも恵まれているらしく、親切にしてくれる知り合いが非常に多い。どこへ行っても嫌な顔ひとつせず生活の面倒を見てくれる知人がいて、今の日本のように仕事で憔悴した社会人がニートや遊び人を蔑んでガス抜きをするというような風潮はない。皆親身になってクヌルプの先行きを心配し、世話をしてくれるのだが、クヌルプはあえて定住の地を持とうとしない。若い内はそれでよかったのだが、クヌルプも若さを失い、40歳を迎えたとき、肺を患う。医者にもう長くないと宣告され、行き倒れ同然に路上で息を引き取る。


 物語の最後の、死を目前に控えたクヌルプと神との対話のシーンは読んでいて本当にたまらない気持ちになった。言ってみればクヌルプは遊び人である。社会的な経済活動にほとんど参加せず、人と人との間で助けられて生きてきた。当時の世相からすればニート同然の穀潰しだったのかもしれないが、現代のニートとは違って、非常に社交的であり、また多くの人々から好意的に扱われている。孤立することが多くなった現代の人間からすると、むしろクヌルプの生き方はむしろ、普通に生きるよりも難易度の高い、人間力が求められる生き方のように思える。おそらく現代でこういう生き方をしている人というと、インターネットで旅行記を書いたり、書籍を出版したりしているような人が近いのではないかと思う。こういった生き方は、何かに縛られて生きている一部の人間からは反感を買うかもしれないが、現代ではむしろ多くの人々の憧れとなる夢のある生き方だと言える。


 が、クヌルプ本人は人生の終わりを迎えて、強烈な後悔の念に襲われる。自分には美しかった少年時代の思い出があるだけで、それ以外には何もない、全て無意味な人生だったと感じる。神はそれに対して、クヌルプがどんなに恵まれた人生を送ってきたかを説いて聞かせる。お前の人生には肯定すべき部分が数え切れないほどあったではないかと話す。

 

「わたしの名においておまえはさすらった。そして定住している人々のもとに、少しばかり自由へのせつないあこがれを繰り返し持ち込まねばならなかった。」

 

 クヌルプが自分の人生を空虚だと感じるのは、長い人生の中で誰もがほんの一時しか持ち得ないものだけしか見てこなかったからだ。いわばクヌルプは人生を死ぬまで夢の中で生きた人であって、そのような稀有な生き方をしたからこそ、それだけの短い生涯しか与えられなかったのだ。彼は現世で特定の誰かから生涯をかけて愛されることはなかったが、それを補って余りあるほど神に愛された人間だったのである。


 この小説で描かれていることは、晩年を迎えた人間がどのようにして人生を肯定すればよいかということではないかと感じた。他の著作にも見られるようにヘッセ本人が自身の少年時代の思い出に縛られていて、そこから遥かに隔たってしまった自分に向けて書いた物語なのだと思う。人生はほんの一時の鮮やかな時期を過ぎてしまえば、あとは老いとの闘いであって、失っていくばかりの人生をどのようにして生きていけばいいのかという問題が誰にでも必ず覆いかぶさってくる。そうなったとき、どんなに夢見ても、もう絶対に手の届かない若い頃の思い出に縋って生きていくだけだとしたら、それはあまりにも空虚だと言わざるを得ない。


 この作品では、クヌルプが若さを失ってからの時期が少ししか描かれていないし、結果的にクヌルプは夢から覚めることのないまま生涯を終えた。つまり、クヌルプは肺病に罹ったことさえ恵まれていたと言えるわけで、実際の人生は、そこから延々と続いていくのだ。歳をとればとるほど失い、辛くなっていくばかりの下り坂の人生を、なぜ生きていかねばならないのか。その答えはこの作品には出てこないし、ヘッセ自身もまだ理解できていなかったのではないかと思う。