間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

つげ化

最近は暑すぎて行っていないが、ちょっと前から川に行って石を拾ったりしていて、つげ化が甚だしい。思えば自分は幼少期に石の図鑑を眺めてうっとりしているような子供だった。自分が石が好きだったことなんか何十年も忘れていたのに、三つ子のたましい百までというやつか。おそろしい。

 

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碍子が混ざっている


最初に行ったときは白っぽい石を中心に拾ってきた。やはり俯瞰して眺めていると白い石は目に付きやすいのだ。しかし持ち帰ってじっくり観察してみると、黒っぽい石の方が質感がいい。特にカレーのルーみたいな色と質感の石を好んで持ち帰っており、調べてみると頁岩という石に似ていた(合っているかはしらん)。歩いているとぽつぽつ落ちている。次に行ったときはその種類の石をたくさん拾った。他には真っ白い石英や棒状に割れた楔のような石も見つけた。

 

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カレーのルーではない

それと、河原に下りてすぐの橋のたもとに、何やら光沢のある黒い石が大量に溜まっている場所があり、拾ってみたら黒曜石のようなガラス質の石だった。まさか黒曜石があんな目立つ場所に大量に露出しているわけがないだろうと思って、これも調べてみたところ、溶融スラグという産業廃棄物の灰を固めた資材であることが分かった。廃棄物を再利用するためにアスファルトに混入して処理しているらしい。何か珍しいものかと思って大量に持ち帰ったのに、ごみの塊だったとは。こんなにいらないのでどっかで捨てて来る。

手業の痕跡

焼き物狂いが高じて、最近やっと白磁青磁の良さが少しずつ分かってきた。色々な店でそういう器があったら観察するようにしている。以前は全く良さが分からなくて、均質的でつまらない器としか思えず、ほとんどスルーしていた。特に白磁は、あまり綺麗に作りすぎると百均の食器と見分けがつかなくなって、かえって安っぽく見えてしまう。百均でも売っているということは、それだけポピュラーな製法だということなのだろうが、今、これをあえて手作りで綺麗に作る意義はよく分からない。

 

機械で作られた大量生産品の器は、一様に形が整いすぎていて、表情がない。最近は手仕事風に作られた小賢しい器も出回っているが、質感が安っぽかったり、高台がいかにも機械で切断しましたというようなスパッとした切り口だったりするので、見れば大抵すぐ分かる。機械では「あえて下手に作る」とか「ムラを出す」といった仕事は難しいのだろう。


一方で、整然としたものを作るのは機械の得意分野なので、寸分の狂いもなく作られた白磁の器はどこの雑貨屋に行っても大抵置いてある。最近は安物でもシンプルでオシャレなデザインを取り入れているものが多く(百均は盗用デザインだらけだが)、そういうものはもう人間の手で作る必要はないと俺は思っている。

 

白磁の器に限って言えば、一流の技術を持った作家の精巧な器と、機械で作った百均の器と、同じようなデザインのものを並べられたらどっちがどっちか俺には分からないと思う。手で作っているのに手業の痕跡が見出せないようなデザインにして、機械で作ったものに近づけるということに一体どういう意味があるのか。そういうものをあえて買う人は、もはや「手作り」という情報を買っているに過ぎないのではないか。本当に百均の器と見分けが付くのだろうか。


話を戻すと、白磁というのはそれぐらい微妙な差の中にものすごいバリエーションが広がっている器なのだ。「手作りの作家の器」と「大量生産の百均の器」という両極端の対立だけならまだしも、実際にはこの中間に白山陶器みたいなデザイン性の高いブランド品なんかもあったりするので、本当にどれがどれだか言われなければ分からない。あのつるっとした白い表面だけは手で作ろうが機械で作ろうが違いはなく、あとはもうデザインで見分けるしかない。

 

そんな中でも俺が良いと思える白磁の器は、どれだけ精巧に作られていても、ほんの僅かに残った手業の痕跡が見せる微妙な表情のある器である。手作りがいいからといっても、わざとらしすぎるのは駄目だし、上手く作ろうとすること自体は悪いことではない。問題は技術をどう活かすかであって、その精巧な白磁の器にほんの僅かに残された表情が、もしも作家の意図するところであったとするならば、それは非常に美しいものだと思う。そういう白磁の器なら1つぐらい手に入れてみたい。

駄目な方へ

あまりにも暇すぎて何もすることがないので、これから毎月1曲、英語の歌を覚えることにした。今までも好きな曲は歌詞を覚えてカラオケで歌ったりしていたが、歌詞の意味などもちゃんと翻訳されたものを見て、じっくり考えながら覚えてみるのもいいのではないかと思いついた。


最近よく聴いていて覚えたのは、イーグルスの「Hotel California」である。イーグルスは親父が何枚かCDを持っていて、昔ちょろっとだけ聴いたことがあるのだが、その時は中学生ぐらいだったため、全く琴線に触れなかった。しかし今になって聴いてみると、この曲の物悲しげなメロディーと破滅的な叙情性には大きく惹かれるものがある。

 

なんとなくこのホテルはどぎつい色彩の照明で、中は薄暗く、前時代的な内装なのだろうという想像が膨らむ。頭に浮かぶのはとても映画的な映像で、ジム・ジャームッシュの映画の色調に似ている。登場人物たちは何か悟ったような諦めたようなセリフを口にし、亡霊のようにこのホテルと同化しながら存在している。そんな感じの情景。

 

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この曲は麻薬のことを示唆しているという解釈があるそうだが、確かにこの曲の雰囲気は、そういった身を滅ぼすものへと向かう衝動の破滅的な美しさがある。とにかく全部が全部、病的だし暗いし狂気的だしで、こういう抑圧された曲調が非常に俺の好みに合うのである。

 

敬愛するつげ義春の漫画には「私 怖いわ あなたの性格って自分で自分をダメな方へ追い込んでゆくんだもの」というセリフがあるが、駄目だと分かっていながら駄目な方へ駄目な方へ向かっていく人間の有様は何故にこうも人を惹きつけるのか。毒のある作品ほど人の内部に突き刺さるということか。惹かれるだけならまだいいが、自分自身がそうなってしまうともうおしまいで、虚構と現実の区別はつけなければと思うが、俺はすでに駄目駄目なところにずっぽりと嵌まり込んでいて手遅れである。

他人のことばかり

ちょっと前回書いたことの繰り返しみたいになるが、最近ずっと考えていることなので書いておく。

 

インターネットにのめり込めばのめり込むほど強く感じるのは、ネットはどこまで行っても他人事の世界に過ぎない、ということである。他人がやっていることをディスプレイ越しに眺めていても、自分の生活はどうにもならず、ただ時間を浪費するばかりだ。こんなことはツイッターに嫌気が差した時点でとっくに気付いていたことである。

 

岡本太郎なんかは、テレビでスポーツ中継ばかり見ている人のことを、自分と何の関係もない人のことを応援している暇があったら自分のことをやれと批判していたぐらいだ。そうしなければ自分の人生は一向に充実しない。他人のことばかり眺めて生きている人生は、自分の人生の主人公の役から降りているようなものだ。そんな人生が面白いわけがない。にもかかわらず、多くのSNSは「人と繋がる」などというテーマで、どうでもいい他人の生活を四六時中追いかけるようなライフスタイルを推進している。SNSというのは、自分を人生の主人公から引きずり降ろしてしまう最悪のツールなのではないかとさえ思えてくる。

 

しかしまあちょっと冷静になって考えてみると、こうして他人のことばかり羨んでいる習性そのものが諸悪の根源なのであって、隣の芝は青く見えるというだけのことかもしれないのだ。個展やライブに知り合いばかり呼んで、ネット越しの傍目には盛況に見えても、肝心の売り上げは素寒貧というケースもよくあることである。

 

とにかくこんな風に他人のやっていることばかり気にして鬱屈している無駄な時間とストレスをなくすようにした方がいい。俺は他人の活躍を見て「よし、自分も頑張ろう」などと前向きに思えるような健全な人間ではないのだから、この習慣は毒にしかなり得ない。そんなことをしている暇があったら絵の1枚でも描いた方がどれだけ有意義か分からない。これについては前から散々嫌な思いをしているのに、暇を持て余すとすぐネットで不必要な情報ばかり集めてしまう。もう何一ついい影響がないと分かっているので、いい加減にやめたい。

 

そもそもの話をすると、俺は元々はこんなに他人に興味のある人間ではなかった。今でも傍目には全然他人に興味がない人間だと思われていると思う。しかし実際には周囲の人がやっていることを気にしていて、特にネットで分かるようなことだと、よせばいいのにすぐ見てしまう。

 

何故こうなるのかというと、ネットという道具のおかげで、他人の動向を知るための労力が減ったからだと思う。ネットがなかった頃は、他人の動向を知るためには、本人に直接会うとか電話をするといった、本人への何らかのコンタクトを取らねばならないことがほとんどで、そうすると自分が相手に興味を持っているということを本人に知られてしまうのが当たり前だった。しかし今は本人に察知されずにSNS等で動向を知ることができ、心理的抵抗が全然ないので、出歯亀根性みたいなものが増幅させられてしまう。

 

こうした他人への興味は、俺の場合、面識のある身近な人に限られていて、自分と関係のない芸能ニュースなんかには依然として全く関心がない。しかし一度でも何らかの関わりを持った人だと、途端に気になってくる。これは俺にとっては、「別に腹が減っているわけでもないし、食べないなら食べないで何の問題もないのに、机の上にミカンとか煎餅が置いてあるとつい食べてしまう」みたいな状態に似ている。要するに暇だからそういう余計なことばかりしてしまうのだろう。人のことよりもうちょっと自分の動向に関心を持った方がいいのは言うまでもない。

 

とはいえ、他人への興味というのは、良い形で出力できれば、むしろ人間関係を良くするエネルギーになる。これだけSNSが浸透して、芸能人でも何でもない有象無象までが情報発信している時代なのだから、みんな他人に興味を持たれたいという自己顕示欲は肥大化していると見ていいだろう。そんな中で、自然な形で他人への興味を示すことができる人は、情報発信をしている人よりもかえって需要のある人間と言えるかもしれない。まあでもネット上に無限に溢れている他人の情報を四六時中飲み込んでいたら吐き気を催すのが当然の成り行きだと思われるので、興味を示すなら、むしろ相手に伝わるように現実でやった方が何かと実りがあるのではないかと思う。

更新を待つ

書くことがなかったのでブログをしばらく放置していた。正確には書くことはあったが、なんか人に見せようという意識のせいで、文章をうまくまとめようとして書くのが億劫になった。これからはもうちょっと(さらに)適当な感じで書こうと思う。というか、そもそもこんな誰も読んでいないブログ書きたくなかったら書かないで誰も困らないので、そんな意気込みすら必要ない。

 

ところで、自分の人生がなぜこんなにもつまらないのかとしみじみ考えていたら、それは全然更新されないウェブサイトみたいなものだからではないかということを思いついた。訪問者の多いウェブサイトほど内容の更新頻度は高い。俺もよく見るサイトは毎日更新されているところが大半で、何ヶ月も放置されているようなサイトをわざわざ何度も見に行ったりすることはほとんどしない。これはサイト作りにおいては初歩中の初歩と言っていい知識であり、訪問者数を増やす方法と言えばまず間違いなく挙げられる。

 

俺の人生は一体いつから更新されていないのか。俺は自分の人生がもう自分のものだとは思えなくなってきていて、まるで他人事のように「こいつの人生なんにも起こらねーな。つまんねえ」などと思いながら生きている。いつの間にか、ブックマークに入れてあるサイトの更新を待つように、ただ待つだけの人間に成り果ててしまったらしい。口を開けて餌が運ばれてくるのを待っているだけの人生が楽しいはずなどあるわけもなく、自分から何かしなければ永久に何も起こらないと分かっているのに、何もしないで日々を過ごしてしまう。何をやっても結果が出ないので、何もしなくなってしまったのだ。