間違い電話の向こう側

芸術・その他雑記

ベストアーティスト2017

毎年ひとりで勝手にベストアーティストというのを決めている。「その年初めて聴いた音楽」の中から良かったものをだいたい3組ぐらい選んで決める。あくまで自分が初めて聴いた音楽の中から選んでいるので、物凄い大御所と知名度ほぼ0の新人が同時にランクインしていたりする。

 

ブログに書くのは初めてだというのに、今年のベストアーティストは候補が全然いなかった。なので、先月ぐらいから急遽ツタヤに行ったりヤフオクでCDを買ったりして仕入れた中から選び、そして何とか3組のアーティストを決定することができた。ではまず3位から。

 

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3位は見汐麻衣。Mannersや埋火というバンド名義でも活動しているシンガーソングライターで、Mannersは一昨年のベストアーティストの3位に入っている。ソロ作品は今年の11月に初リリース。まあほぼ同じアーティストがランクインしていると言えばその通りなのだが、歌モノとしての聴きやすさがあるので、自然とリピートしてしまう。

 

Mannersの楽曲がどこか不安な薄暗さを漂わせていたのに対し、ソロ作品は妙に明るく、そしてエロティックな要素が混入されている。元々この人の声や歌い方は、童謡でも歌っているかのように朗らかで、ちょっと変わったことをやっているタイプのアーティストにしては珍しいほど聞き取りやすい。似たようなポジションにいる山本精一あたりと組んで歌モノデュオをやってほしい。この「歌のおねえさんとおにいさん」的な歌い方の2人で怪しげな曲を作ったら、かなり面白いものができそうな気がする。

 

そのような歌と相まって、今回のソロ作品では、音作りの面でも少し古い感じの音を使っているので、何か色の褪せた昔のビデオテープでも見ているような印象を受けた。別に自分はその世代ではないのだが、どうも最近、こういったシティポップ風の懐かしい音に惹かれる。余談だが、ゆらゆら帝国に始まり、Ogre You Asshole前野健太、そして見汐麻衣もそうなのだが、サウンドエンジニアの中村宗一郎が関わっているアーティストはやたらと当たりが多い。

 

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2位はなぜかEarth, Wind & Fire。自分は普段、好きな音楽を散発的に手に取って聴いているだけなので、自分の聴いている音楽のルーツがどこから来ているのかなどとはあまり考えない。しかし、ここ数年よく聴いているファンクの要素が入った音楽は、明らかにこの辺りから来ているので、ちょっと軽い気持ちで大御所を聴いてみた。凄すぎてぶっ飛んだ。

 

そういえば以前、Sly & The Family Stoneを聴いたときも同様にぶっ飛んだことを思い出した。ブラックミュージックのクールさときたら他の追随を許さないほどなのに、さらに強烈なグルーヴ感で盛り上げるパワーも持ち合わせているのだから、これはもう感服するしかない。この時代の音楽にも懐かしさの漂うシンセサウンドが使われていて、やはり惹かれてしまう。なんか大御所すぎて今さら感想なんか書く必要性を感じない。

 

 

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1位はD.A.N.。日本の若手バンド。最近は国内の若手バンドはあまり漁っていないのだが、Ogre You Assholeと対バンしていたのを知って聴いてみたらめちゃくちゃ良かった。こういうアングラ感の漂うバンドにしてはかなりの人気が出ているようで、今さら取り上げるのも随分遅れている気がしないでもない。というのは、実は結構前からD.A.N.の名前は知っていたのだが、ちらっとPVを見た程度で「なんかスカしてて気に食わんな」と片付けていたのである。あほやった。

 

このもわもわとした変な空間を感じさせる音やボーカルは、浮遊感があって実に心地よい。いくつもの曲で多用されているマリンバ(?)みたいな音が空間をほのかに色付けしていて、無味乾燥にもならずに済んでいる。結構リズム感が強くてのれる曲もあるのだが、もしライブで聴いたら「のる」というよりも「漂う」という感じに近くなるのではないかという気がする。バンド結成が2014年で、まだそんなに音源が出ていないので、今後しっかり追いかけて聴いていきたい。

 

4位以下はMikael Simpson、Go The Find、王舟など。冒頭に書いたとおり、今年は総数が少なめだったので、来年はもうちょっと積極的に漁ろうかなと思う。

関西蚤の市

いつものようにだらだらとネットを見ていたら、「関西蚤の市」というイベントが今月の2日から3日にかけて開かれているのを知り、急に思い立って行ってみた。場所は阪急神戸本線仁川駅を降りてすぐの阪神競馬場。競馬場の中に広い公園があって、そこが会場になっている。


今年で開催4回目だそうで、聞いた事のないイベントだったため、軽い気持ちで足を運んだところ、なめていた。会場に向かう電車からもう混んでいて、梅田駅レベルの人混みがそのまま会場に流れ込んでいた。蚤の市に行く人だけでなく、レースも通常通り行われているため、競馬場に向かうギャンブラー共も加わって、相当な大入りである。オシャレなアンティークを求める若い女性やおハイソ民と、小汚い格好のギャンブラー共との対比が鮮烈。こんなことを言っている自分はおそらく外見上は後者に分類されそうである。


会場に着いて少し見回った時点で、なめていたのは混雑ぶりだけでなく、店の数もだということに気付いた。当初、2時間もあれば余裕で見て回れるだろうと踏んでいたのだが、結局3時間以上かかった。店が130店ぐらい出ている上、物が骨董品なので細々とした商品が多くて見るのに時間がかかる。園内はかなり広いものの、家族連れで来ている人なども多くて、人気店の周りは身動きが取れないほどだった。自分は1人で行ったので好き勝手に回れたが、誰かと一緒に行っていたら絶対はぐれていたと思う。店の配置もけっこうバラバラなので、回るルートを考えてから動かないと訳が分からなくなる。


混雑しているだけあって、集まっている店は良い品揃えのところが多かった。関西だけでなく、全国の洒落た店が集結している。関西の骨董市には四天王寺の「大師会」や「京都アンティークフェア」など、いくつか行ってみたのだが、「関西蚤の市」はそれらの骨董市のように年寄りだらけの辛気臭さは全くなく、むしろ客は若い人ばかりで活気があった。最近はこういったアナクロ趣味の人が増えているのか、過去に行った市の中では「京都ふるどうぐ市」なんかも若い人が多くてセンスが良かった。


個々の店についてはいちいち書いていたらキリがないので省くが、品揃えの良い店が非常に多くて、適当に流し見するのは勿体ない。骨董市というと日本のガラクタばかりのところが多い中で、このイベントは西洋のアンティークがメインなので、見慣れないものばかりで実に楽しい。骨董だけでなく新品の陶器もかなり出ていて、全国の民芸の器や北欧食器も大量に見られた。

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購入物1 マーブル塗装の壺

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購入物2 木製の猪口

と言いつつ、結局買ったのは細々としたものばかりで、思っていたほど金は遣わなかった。手当たり次第に買っていると、ただでさえ狭い家の中が骨董品や陶器で埋め尽くされるので、最近こういうものを買う前にはよく考えて、ちょっといいなと思ったぐらいでは手を出さないようにしている。それでもなかなか良いものが買えたと思う。いろんな店を見回るだけでも相当楽しめた。時間と気力があればぜひ来年も行きたい。

壁を見る

少し前に杉浦貴美子という人の「壁の本」という本を買った。タイトルのとおり、壁の写真を集めた作品集で、ずっと前から欲しかった本である。絶版のようでなかなか手に入らなかったのだが、最近やっと購入することができた。

 

最近は描きたい絵が抽象画に接近していて、その嗜好性は素材の質感や経年劣化によるマチエールに向かっている(骨董品や陶器の収集もこれに関連している)。そのため、「壁の本」に収められている古い壁の写真にも強い興味があって、内容を見てみると、もうほとんどこれをこのまま絵にすればいいんじゃないかと思うぐらい素晴らしく感じた。帯文にも「街中に絵があふれている」とあって、著者もこれを絵画的な視点から見ている。

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自宅付近で撮影

自分もこういった自然に劣化したものの美しさを再現したいと思っていろいろとやってみてはいるのだが、人間が作為的に作ったものと、自然にそうなったものの間には、埋めがたい溝がある。限りなくそれに近づけることはできるだろうし、自然にできたものが何よりも優れていると言うつもりもないのだが、再現はどこまで行っても再現であり、オリジナルにはならないのである。

 

鉄扉の錆びひとつ取ってみても、表面の塗料が剥がれ、その部分が長い間風雨に曝されて、錆びが下に流れ、跡ができていくのであって、こういうものを絵画に取り入れ、効果として確立するのは難しい。なぜなら、こういった現象は、生み出す過程にあることではなく、壊れる過程にある現象だからである。これを再現しようと思えば、それは単に自然の作用をなぞる行為や、偶然を選び出す行為になり、一般的な意味での絵を描くという行為からは離れていく。写真に撮るだけなら、選び出すだけでも成り立つかもしれないが、絵を描く人間としては、絵描きの仕事がそこで終わってしまっていいのだろうかという躊躇いがある。また、このような自然物が土に還る過程を美意識をもって眺めるとき、表面的なことだけではなく、そこに流れた時間の集積を見ているのであって、即席で作られた再現物にはそういった重みがないように感じてしまう。これは先入観によるものだろうか。

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自宅付近で撮影

まあいろいろと思うことがあって、答えは出せていないのだが、写真を撮るのは絵のヒント探しにもなるので、自分でも壁の写真を撮ってみた。すると、思っていたより良い写真がたくさん撮れた。都合の良いことに、自分が住んでいるところからは、少し歩けば小汚い建物が密集している地区もあるので、こういう写真と撮るのには事欠かない。もう10年近く住んでいて、近所に撮るものなんかないと思っていたが、こうしてまた新しい視点から写真を撮るのはとても面白い。近所だけでなく、他の場所でもやってみようかと思う。

お客様から抜け出せないアーティスト2

の続き。

 

結局、貸しギャラリーとは何なのかというと、企画ギャラリーに拾ってもらえない有象無象の作家の受け皿であって、これがあるからこそ、お前のような中途半端な人間が作家のふりをできるんだろと言われたら返答に詰まる。事実、日本は美術市場の規模が小さいのに、作家志望者はやたらと多い。それはアニメや漫画文化の影響だったり、美術系の学校が多すぎるせいでもあるだろうが、科学技術が進歩して人間の仕事が機械に奪われると、人間独自の仕事は発明とか創作ぐらいしかなくなるので、先進国で作家のような浮き草家業の人間が供給過多になるのは自然な流れだと思う。そして、みんながみんな金脈を掘り当てようとしているときに、ツルハシを売って儲けようとする人間が出てくるのも当たり前のことなのだ。

 

ただ、海外だと、そもそも貸しギャラリーなどというものはほとんど存在せず、企画ギャラリーが主流だと聞く(金を払って展示をしているという時点でプロではないという認識なのだろう)。企画ギャラリーでは、ギャラリーの販売手数料は高くなるが、「作品が売れるかどうか」というリスクを店と作家が共に背負っている分、両者に責任感と互助関係が生まれるし、商売としては健全である。

 

今は企画ギャラリーも潰れまくっているし、日本ではそもそも芸術作品が売れないというので、自分の周りでも海外に脱出する人が増えている。国内では作品が売れない分を、有象無象の作家志望者から補填しようという動きが加速し、ヒエラルキーがより補強される。要するに、弱者は強者の養分にされるというありふれた構図である。ただ、実力のある作家の養分にされるのならまだ納得がいくが、実際には芸術のことなど何も知らないような金目当ての連中の養分にしかなっていないことが多く、こんなことをいくら繰り返しても何の進歩もない。

 

何故そんなことになるのかという根本のところを言えば、日本人に「芸術作品を買って家に飾る」習慣がないからと言う他ない。バブル期は金が有り余っている人が芸術作品に金を使っていたのでまだ良かったのだろうが、それも大半は純粋に作品が好きだからというより、「将来作品の価値が上がるかもしれない」という投資目的で買っていた人が多かっただけで、今の美術業界には投資的な価値のあるものなんかほとんどない。

 

散々書いてきたが、自分も貸しギャラリーを全否定しているわけではない。形態としては貸しギャラリーでも、良い作家を集めて固定客がついている店もある。大雑把な貸しギャラリーという分類の中にも、ちゃんと作品を売る営業努力をしている店もあれば、スタッフすら常駐していない、本当にただ場所を貸すだけの店もある。

 

賃料と販売手数料の二重取りが当たり前になっていることについては、商売の筋としておかしいと思うが、それによって単純に貸しギャラリーが悪だということにしても、それは根本的には「作家志望者が多すぎる」のと、「日本では芸術作品が売れない」せいだから仕方ない、というところに行き着いてしまう。少しでも芸術が身近な存在になるのなら、貸しギャラリーでも無いよりはマシなんじゃないかと考えるべきなのだろうか。

お客様から抜け出せないアーティスト1

芸術なんかにあまり興味がないという人にとっては、芸術家の展覧会というと、基本的に美術館や百貨店で開催されているもののことを想像すると思う。しかし、そのような場所で展示ができるのは評価や知名度のある作家だけで、大多数の作家は美術館や百貨店での展示には縁がない。そんなわけで、有象無象の作家は、初めは貸しギャラリーを借りて作品を発表することが多い。自分も何度か貸しギャラリーで個展をしてみた結果、正直、貸しギャラリーというものに対する不信感を強めるばかりで、あまり希望が見出せなかった。

 

大雑把に分けると、ギャラリーには貸しギャラリーと企画ギャラリーの2つがある。

 

貸しギャラリー

・賃料がかかる。

・基本的には誰でも利用できる(審査がある店もある)。

・作品の売り上げに関しては、販売手数料を取る店もあるし、一切取らない店もある。

 

企画ギャラリー

・賃料はかからない。

・ギャラリーが選んだ作家の企画展示のみを行う。

・作品の売り上げを作家と店が分割する。割合は店によるが、基本的には貸しギャラ

 リーより高い。

 

貸しギャラリーで個展を開くとして、収支がどのようなものになるのか、試しに数字を挙げてみる。自分が知っている某ギャラリーだと、1週間(実質6日間)の賃料が12万5千円。さらに作品が売れた場合、売値から販売手数料が30%差し引かれる。ということは、仮に1週間で20万円の売り上げがあったとすると、販売手数料が−30%で残り14万円、そこから賃料で−12万5千円、残りが1万5千円。単純にギャラリーに払う金だけでこうなるので、宣伝にかかる費用や作品の送料、材料費なんかを入れると、このぐらいの売り上げではほぼ赤字になる。

 

これはあくまで一例で、賃料や手数料は店によってまちまちだが、1週間で20万円売り上げられるような作家ですらこの有様なのだから、作品の売り上げだけで生活するというのがどれだけ非現実的なことかは言うまでもない。個展を開くためには、それなりの数の作品を揃えなければならないのであって、準備に数ヶ月から数年はかかる。そんなわけで、作家として長年活動している人間であっても、主な収入源はどこかの学校や絵画教室の講師としての給料だったりする場合がほとんどである。

 

ギャラリーの人に直接訊いたわけではないので正確なところは知らないが、今どき貸しギャラリーを1週間借りるだけで20万円も売り上げられる作家は少ないと思う。それなりに条件の良いギャラリーだと、黒字にするだけでも結構大変である。逆に言えば、1週間で20万円程度も売り上げられないような作家はそこで展示をするべきではない、ということになるのかもしれないが、安定してそのぐらいの売り上げを出せる人は、そもそも貸しギャラリーなんか借りずに企画ギャラリーに売り込みにでも行った方がいいのではないかと思う。

 

以前書いた映像制作の話とも少し繋がるが、貸しギャラリーを借りて個展を開いたからといって、大きな宣伝力に与れるわけでも何でもない。むしろ宣伝は自分でしなければ客なんて来ないし作品も売れない。自分の責任で個展をやる以上、お客様感覚でいては駄目なのだと思いながらも、一方で自分はギャラリーには確かに賃料を払っていて、お客様に他ならないのではないかという疑問が湧く。ギャラリーと名のつく店に金を払ったにもかかわらず、それによって受けられるサービスが単に「場所を借りる」という一点に尽きるのだとしたら、これは果たしてギャラリーと呼んでいいのか。

 

誤解のないように補足しておくと、店番だの販売の手続きだの、商売における基本的な業務はギャラリー側が大抵してくれる。本当に「場所を貸す」ことだけしかやらないギャラリーがそんなに沢山あるわけではない(そんなものはギャラリーではない)。ただ、ギャラリーの本分である仕事が何なのかと考えたとき、それは当然「作品を売ること」のはずである。にもかかわらず、今の貸しギャラリーの実体は、芸術なんかに何の関心もなくても、誰でもできるような仕事でしかなくなっている。

 

作品を売る努力を放棄した貸しギャラリーは、金持ちの日曜画家なんかをおだてて個展を開かせ、賃料を取るのが目的と化している。客が入ろうが入るまいが、作品が売れようが売れまいが、ギャラリーは賃料だけでやっていけるような料金設定にしているのでどうでもいいのである。そのくせ絵が売れると「販売手数料」という名目で売り上げから何割かの金をかすめ取る。商売をする上での「もし商品が売れなかったら」という当たり前のリスクを賃料という形に変換して作家に丸ごと押し付け、たまたま入ったリターンにはしっかり手をつけるという、二重取りの卑怯極まりない営業姿勢が貸しギャラリーの常識になっている。当然、実力もない日曜画家の絵なんかを見に来るのは身内だけなので、何度個展を開こうが、自己満足にしかならない。ミュージシャンにとってのライブハウスも同じようなもので、ライブを見にくる客から金を取るのではなく、出演者から金を取れば良いという営業形態がこの業界でも当たり前になってしまっているそうだ。

 

このような貸しギャラリーと無名作家の関係を考えるとき、思い浮かぶのが紳士録である。その昔、紳士録詐欺というものがあったそうで、著名人などのプロフィールを紹介する本にあなたも名前を掲載しませんかと持ちかけ、掲載料と本の代金をせしめるというやり口だったという。そんな本を買うのは本に名前が載っている当事者たちだけで、まるっきり裸の王様でしかない。人の名誉心にかこつけたこの商法は、作家として名を上げたいという作家志望者と貸しギャラリーの関係に似ている。

 

絵画などのコンペでも、応募者の大半を入選ということにして(もちろん賞金なし)空疎な名誉を与え、出品料をより多くの作家志望者からせしめることが目的になっているようなものが多い。名目だけでも入選と言っておだてておけば、「今度は入賞するかも」ということで、また応募してもらえる可能性が高まると踏んでいるのだろう。作家側も箔がつくならということで、出品料を払ってそれを買う。これももはやコンペでも何でもなく、モンドセレクションと同じ、ただの商売である。こういうやり口を見ていると、なんだか子供の運動会で徒競走の順位をつけないというのと同じような、生温いままごとに思えてくる。こうなるともう創作という名の消費活動でしかない。

 

実際、貸しギャラリーで個展やグループ展をやると、次々と展示の声がかかるようになるのだが、別に賃料をタダにしてくれるわけでも何でもないので、カモにされているだけなのではないかという疑念が沸々と湧いてくる。貸しギャラリーからの展示の誘いは、実質的には「うちの商品を買ってくれ」と懇願されているに過ぎないのであって、これを作家としての自分に来た仕事の依頼のように思い込んで、次々と賃料を毟り取られているような作家もよく見かける。もちろん、そういう展示をして楽しければそれでいいという人もいるだろうし、人との出会いがあって何かが起こることもあるかもしれないが、そういった展示にいくら参加しても、それが作家のキャリアとして見られることはない。

 

に続く。